名将言行録 / 『名将言行録』細川忠興 会津を辞した理由
○小田原の役終て後、秀吉、忠興に會津の地を賜ふべしと言はれしに、忠興承はり、御政務の爲めに、此所を守らせられんには辭することあるべからず、若し年來の功を賞せられんが爲めに賜はらば、假令小國なりとも西國にて賜ふべけれと申すにぞ、會津を蒲生氏郷に賜はりけり。ある書に秀吉會津の地に誰を封ずべきか、入れ札せよと、諸侯に命ぜしに、多くは忠興を推す。秀吉曰く、こゝは氏郷ならでは叶ふまじ、諸君が忠興と云ふは、鑑定違ひなり、されば余が天下を取りしなりと云ひしと。とにかく忠興が下馬評に上りしことは確かである。
新字:○小田原の役終て後、秀吉、忠興に会津の地を賜ふべしと言はれしに、忠興承はり、御政務の為めに、此所を守らせられんには辞することあるべからず、若し年来の功を賞せられんが為めに賜はらば、仮令小国なりとも西国にて賜ふべけれと申すにぞ、会津を蒲生氏郷に賜はりけり。ある書に秀吉会津の地に誰を封ずべきか、入れ札せよと、諸侯に命ぜしに、多くは忠興を推す。秀吉曰く、こゝは氏郷ならでは叶ふまじ、諸君が忠興と云ふは、鑑定違ひなり、されば余が天下を取りしなりと云ひしと。とにかく忠興が下馬評に上りしことは確かである。
書き下し
○小田原の役終て後、秀吉、忠興に會津の地を賜ふべしと言はれしに、忠興承はり、御政務の爲めに、此所を守らせられんには辭することあるべからず、若し年來の功を賞せられんが爲めに賜はらば、假令小國なりとも西國にて賜ふべけれと申すにぞ、會津を蒲生氏郷に賜はりけり。ある書に秀吉會津の地に誰を封ずべきか、入れ札せよと、諸侯に命ぜしに、多くは忠興を推す。秀吉曰く、こゝは氏郷ならでは叶ふまじ、諸君が忠興と云ふは、鑑定違ひなり、されば余が天下を取りしなりと云ひしと。とにかく忠興が下馬評に上りしことは確かである。
現代語訳
○小田原の役が終わったあと、秀吉は忠興に会津の地を賜ろうと言われましたが、忠興は承って、「ご政務のために、この所を守らせられるのでしたら、辞退することはありません。もし長年の功を賞されるために賜るのでしたら、たとえ小国でも西国で賜りたく存じます」と申したので、会津は蒲生氏郷に賜わりました。ある書には、秀吉が、会津の地に誰を封ずべきか、入れ札をせよと諸侯に命じたところ、多くは忠興を推薦した。秀吉は、「ここは氏郷でなくては務まるまい。諸君が忠興と言うのは、鑑定違いだ。だからこそ私が天下を取ったのだ」と言った、とあります。とにかく忠興が下馬評に上ったことは確かです。
解説

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