名将言行録 / 『名将言行録』細川忠興 関ヶ原の兜と密かな功
○關ヶ原の役、忠興只一騎德川家の旗本に至る。山鳥の尾の胄に、銀の天衝に、くり半月の指物なり。遠見するに、殆んど舞鶴の如し。家康見て武具の好み、世に勝れ萬事見事なり、中にも胄と立物の取合善しと言はれ、銀の天衝の指物所望せられて、秀忠へ遣はされしとぞ。 ○此役終て後、本田正信私邸に於て、諸大名の使者に逢ける時、忠興が使者澤村大學、正信の前へ出ければ、正信、大學を近く呼びて、忠興の懇切の忠勤を談話し、越州の祕計を以て、内府にも禍を免がれ、正信等も生命を全くす。其刻のことは、御家人の中に、井伊直政と、某父子ならで其委曲を知る者なし、尤も忠功の諸將多しと雖も、恐くは細川の家に等しき將あるべからず、爰を以て越州のことをば、聊かも疎略に存ぜず、在江戸の刻は、彼屋敷の方をば後にして寢ることなしと、大に歎稱しければ、在り會諸家の使者、何れも耳目を驚かしけるとぞ。
新字:○関ヶ原の役、忠興只一騎徳川家の旗本に至る。山鳥の尾の胄に、銀の天衝に、くり半月の指物なり。遠見するに、殆んど舞鶴の如し。家康見て武具の好み、世に勝れ万事見事なり、中にも胄と立物の取合善しと言はれ、銀の天衝の指物所望せられて、秀忠へ遣はされしとぞ。 ○此役終て後、本田正信私邸に於て、諸大名の使者に逢ける時、忠興が使者沢村大学、正信の前へ出ければ、正信、大学を近く呼びて、忠興の懇切の忠勤を談話し、越州の秘計を以て、内府にも禍を免がれ、正信等も生命を全くす。其刻のことは、御家人の中に、井伊直政と、某父子ならで其委曲を知る者なし、尤も忠功の諸将多しと雖も、恐くは細川の家に等しき将あるべからず、爰を以て越州のことをば、聊かも疎略に存ぜず、在江戸の刻は、彼屋敷の方をば後にして寝ることなしと、大に嘆称しければ、在り会諸家の使者、何れも耳目を驚かしけるとぞ。
書き下し
○關ヶ原の役、忠興只一騎德川家の旗本に至る。山鳥の尾の胄に、銀の天衝に、くり半月の指物なり。遠見するに、殆んど舞鶴の如し。家康見て武具の好み、世に勝れ萬事見事なり、中にも胄と立物の取合善しと言はれ、銀の天衝の指物所望せられて、秀忠へ遣はされしとぞ。 ○此役終て後、本田正信私邸に於て、諸大名の使者に逢ける時、忠興が使者澤村大學、正信の前へ出ければ、正信、大學を近く呼びて、忠興の懇切の忠勤を談話し、越州の祕計を以て、内府にも禍を免がれ、正信等も生命を全くす。其刻のことは、御家人の中に、井伊直政と、某父子ならで其委曲を知る者なし、尤も忠功の諸將多しと雖も、恐くは細川の家に等しき將あるべからず、爰を以て越州のことをば、聊かも疎略に存ぜず、在江戸の刻は、彼屋敷の方をば後にして寢ることなしと、大に歎稱しければ、在り會諸家の使者、何れも耳目を驚かしけるとぞ。
現代語訳
○関ヶ原の役で、忠興はただ一騎で徳川家の旗本のもとに至りました。山鳥の尾の兜に、銀の天衝き、くり半月の指物の姿で、遠目に見ると、まるで舞い飛ぶ鶴のようでした。家康はこれを見て、「武具の好みは世にすぐれ、すべて見事だ。なかでも兜と飾りの取り合わせがよい」と言われ、銀の天衝きの指物を所望して、秀忠に与えられたということです。 ○この役が終わったのち、本多正信は私邸で諸大名の使者に会ったとき、忠興の使者の沢村大学が正信の前に出ると、正信は大学を近くに呼んで、忠興の懇切な忠勤を話し、「越州(忠興)の秘計によって、内府(家康)も禍を免れ、正信らも命を全うした。そのときのことは、御家人のうちで、井伊直政と私の父子のほかには、その詳細を知る者がない。もっとも忠功の諸将は多いが、おそらく細川家に等しい将はあるまい。これによって、越州のことは、いささかも疎略にしない。江戸にいる間は、あの屋敷の方を後ろにして寝ることはない」と、大いに感嘆し称えたので、居合わせた諸家の使者は、どれも耳目を驚かしたということです。
解説

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