名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 勅命による開城
此由又都に聞えしかば、三條西大納言實條、綸命を含みて丹後に下向ありて、速に勅に應じ、其城を去るべしとありければ、藤孝畏て普天の下率土の濱、王臣に非ずと言ふことなしと承はる、況や此微賤の身、斯く面のあたり龍泥の辱を蒙るをや、去ながら、藤孝が年若き時ならんには、弓箭執る身の習なり、敢て死を白刄の際に決して、深く恩を黃泉の下に感ずることもあるべし、今は齡旣に傾きぬ、假令此戰に死することなからんにも、餘命又幾くぞや、去れば惜かる間敷身なるが故に、私の名譽を貪て如何で朝命を背き參らすべき、と答奉りて、頓て城をば去てけり。 ○關ヶ原役後、德川家草創の業は既に成りけれども、柳營の儀は未だ備はらず。爰に藤孝は、世々の將軍に仕へて、然も當時の有職なり。丹後を出でしより、都に登り仁和寺の邊に幽なる棲居して、悟り居たり。家康此人に付てこそ、前代の事をも訪ひ、當世の禮をも講ずべけれと、永井直勝を使として、武家の儀式、悉くに受け傳へさせられけり。去れば德川家の禮節は、內々藤孝の定めしことも、多かりしとぞ。
新字:此由又都に聞えしかば、三条西大納言実条、綸命を含みて丹後に下向ありて、速に勅に応じ、其城を去るべしとありければ、藤孝畏て普天の下率土の浜、王臣に非ずと言ふことなしと承はる、況や此微賤の身、斯く面のあたり竜泥の辱を蒙るをや、去ながら、藤孝が年若き時ならんには、弓箭執る身の習なり、敢て死を白刄の際に決して、深く恩を黄泉の下に感ずることもあるべし、今は齢既に傾きぬ、仮令此戦に死することなからんにも、余命又幾くぞや、去れば惜かる間敷身なるが故に、私の名誉を貪て如何で朝命を背き参らすべき、と答奉りて、頓て城をば去てけり。 ○関ヶ原役後、徳川家草創の業は既に成りけれども、柳営の儀は未だ備はらず。爰に藤孝は、世々の将軍に仕へて、然も当時の有職なり。丹後を出でしより、都に登り仁和寺の辺に幽なる棲居して、悟り居たり。家康此人に付てこそ、前代の事をも訪ひ、当世の礼をも講ずべけれと、永井直勝を使として、武家の儀式、悉くに受け伝へさせられけり。去れば徳川家の礼節は、内々藤孝の定めしことも、多かりしとぞ。
書き下し
此由又都に聞えしかば、三條西大納言實條、綸命を含みて丹後に下向ありて、速に勅に應じ、其城を去るべしとありければ、藤孝畏て普天の下率土の濱、王臣に非ずと言ふことなしと承はる、況や此微賤の身、斯く面のあたり龍泥の辱を蒙るをや、去ながら、藤孝が年若き時ならんには、弓箭執る身の習なり、敢て死を白刄の際に決して、深く恩を黃泉の下に感ずることもあるべし、今は齡旣に傾きぬ、假令此戰に死することなからんにも、餘命又幾くぞや、去れば惜かる間敷身なるが故に、私の名譽を貪て如何で朝命を背き參らすべき、と答奉りて、頓て城をば去てけり。 ○關ヶ原役後、德川家草創の業は既に成りけれども、柳營の儀は未だ備はらず。爰に藤孝は、世々の將軍に仕へて、然も當時の有職なり。丹後を出でしより、都に登り仁和寺の邊に幽なる棲居して、悟り居たり。家康此人に付てこそ、前代の事をも訪ひ、當世の禮をも講ずべけれと、永井直勝を使として、武家の儀式、悉くに受け傳へさせられけり。去れば德川家の禮節は、內々藤孝の定めしことも、多かりしとぞ。
現代語訳
このことがまた都に聞こえたので、三条西大納言実条が勅命を受けて丹後に下向し、速やかに勅に応じて、その城を去るよう言われたところ、藤孝はかしこまって、「普天の下、率土の浜、王臣に非ざるはなし、と承っております。まして、この微賤の身が、こうして面と向かって、竜顔の辱けなさを受けております。とはいえ、藤孝が年若いころならば、弓矢を取る身の習いで、あえて死を白刃のうちに決し、深く恩を黄泉の下で感ずることもありましょう。いまは年齢もすでに傾き、たとえこの戦で死ななくても、余命はあと幾らでしょうか。それならば惜しくもない身ですので、私の名誉をむさぼって、どうして朝命に背けましょうか」とお答え申し上げ、すぐに城を去りました。 ○関ヶ原の役のあと、徳川家の創業はすでに成りましたが、将軍家の儀式はまだ整っていませんでした。ここに藤孝は、代々の将軍に仕え、しかも当時の有職故実に通じていました。丹後を出てから、都に登り仁和寺のあたりに閑静な住まいを構え、悟りすましていました。家康はこの人に聞いてこそ、前代の事も尋ね、当世の礼も講じられるだろうと、永井直勝を使いとして、武家の儀式を、ことごとく受け伝えさせました。そのため徳川家の礼節は、内々には藤孝が定めたものも多かったということです。
解説

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