名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 評・異色の武将
戰國時代に於ける異色ある武將である。室町幕府時代の名家である斯波、畠山、赤松今川、山名、吉良、一色、石橋などの諸大名家は、戰國時代に殆んど亡んだ。吉良などは、やうやく高家衆として殘つたゞけである。その中で、細川家だけが、大々名として殘つたわけである。藤孝も、正統ではないにしても、細川氏を冒すだけの理由はあつたのであらう。 室町幕府の名家であるだけに、古賓や有職に明ろいので、秀吉にも、家康にも、その點で重んぜられたのであらう。關ヶ原の時、田邊(今の舞鶴)に籠城して、西軍に圍まれ危かつたのを、勅命に依つて退城したのは、何と云つても名譽のことである。子の忠興に對して(入らぬ時宜なり、その元などの五人や十人して汚さるゝ分にて、われ等が歌道は汚るゝことにてはなし)と、云つてゐるのは、甚だ痛快だが、しかし藤孝は、歌人として傑出してゐたわけでないことは、その作歌があまり傳つてゐないのでも分る。たゞ、歌學者としては、その時代としては、外に人もないので、大切な人であつたらしい。
新字:戦国時代に於ける異色ある武将である。室町幕府時代の名家である斯波、畠山、赤松今川、山名、吉良、一色、石橋などの諸大名家は、戦国時代に殆んど亡んだ。吉良などは、やうやく高家衆として残つたゞけである。その中で、細川家だけが、大々名として残つたわけである。藤孝も、正統ではないにしても、細川氏を冒すだけの理由はあつたのであらう。 室町幕府の名家であるだけに、古賓や有職に明ろいので、秀吉にも、家康にも、その点で重んぜられたのであらう。関ヶ原の時、田辺(今の舞鶴)に籠城して、西軍に囲まれ危かつたのを、勅命に依つて退城したのは、何と云つても名誉のことである。子の忠興に対して(入らぬ時宜なり、その元などの五人や十人して汚さるゝ分にて、われ等が歌道は汚るゝことにてはなし)と、云つてゐるのは、甚だ痛快だが、しかし藤孝は、歌人として傑出してゐたわけでないことは、その作歌があまり伝つてゐないのでも分る。たゞ、歌学者としては、その時代としては、外に人もないので、大切な人であつたらしい。
書き下し
戰國時代に於ける異色ある武將である。室町幕府時代の名家である斯波、畠山、赤松今川、山名、吉良、一色、石橋などの諸大名家は、戰國時代に殆んど亡んだ。吉良などは、やうやく高家衆として殘つたゞけである。その中で、細川家だけが、大々名として殘つたわけである。藤孝も、正統ではないにしても、細川氏を冒すだけの理由はあつたのであらう。 室町幕府の名家であるだけに、古賓や有職に明ろいので、秀吉にも、家康にも、その點で重んぜられたのであらう。關ヶ原の時、田邊(今の舞鶴)に籠城して、西軍に圍まれ危かつたのを、勅命に依つて退城したのは、何と云つても名譽のことである。子の忠興に對して(入らぬ時宜なり、その元などの五人や十人して汚さるゝ分にて、われ等が歌道は汚るゝことにてはなし)と、云つてゐるのは、甚だ痛快だが、しかし藤孝は、歌人として傑出してゐたわけでないことは、その作歌があまり傳つてゐないのでも分る。たゞ、歌學者としては、その時代としては、外に人もないので、大切な人であつたらしい。
現代語訳
戦国時代における異色ある武将である。室町幕府時代の名家である斯波、畠山、赤松、今川、山名、吉良、一色、石橋などの諸大名家は、戦国時代にほとんど滅んだ。吉良などは、ようやく高家衆として残っただけである。その中で、細川家だけが、大大名として残ったわけである。藤孝も、正統ではないにしても、細川氏を名のるだけの理由はあったのであろう。 室町幕府の名家であるだけに、故実や有職に明るいので、秀吉にも、家康にも、その点で重んぜられたのであろう。関ヶ原のとき、田辺(今の舞鶴)に籠城して、西軍に囲まれ危なかったのを、勅命によって退城したのは、何といっても名誉のことである。子の忠興に対して「いらぬ時宜なり、その元などの五人や十人して汚さるる分にて、われ等が歌道は汚るることにてはなし」と言っているのは、はなはだ痛快だが、しかし藤孝は、歌人として傑出していたわけでないことは、その作歌があまり伝わっていないのでも分かる。ただ、歌学者としては、その時代としては、ほかに人もないので、大切な人であったらしい。
解説

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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 田辺城籠城と歌の道○慶長五年、大坂の奉行等、田邊の城を攻落せとて、丹波、但馬の軍勢を差向く。然るべき兵をば引勝りて、忠興率ゐて會津に下る。おとなしき者共に、兵少し付けて、豐後に下して、杵築の城を守らしむ。丹後には藤孝に、老幼の者共計り殘り居て、敢果〳〵敷軍すべき者なし。去れども藤孝去る古兵にて、少しも騷ぐ氣色なく、宮津の城を捨て、田邊の城に楯籠り、敵遲しと待居たり。抑々藤孝は弓箭打物執て堪能なるのみならず、多くの技藝に通達せり。天下雙なき多才多能の人なりけり。中にも敷島の道に深く勝れて、古今和歌集の祕訣悉く藤孝に傳はれり。此度我身討死したらん後、此道長く絶なんことを悲み、城に籠る初め、相傳の書共取集めて大內へ獻るとて、『古も今も替はらぬ、世の中に、心の種を、殘す言の葉。』と云ふ一首の歌を副へてぞ參らせける。斯て丹波、但馬の軍勢雲霞の如く押寄せ、十重二十重に押取卷て火水になれと攻めけれども、藤孝少しもひるまず、防ぎ戰ふ。斯ては此城中々一時に攻落すべくも見えず。時に朝廷より烏丸右大辨光宣を勅使として大坂に下され、毛利輝光、石田三成に勅宜を傳らる。夫和歌は、我邦の風として、天地開け始まりしより此の方、百王の今に至るまで其道長く傳はれり。然るに古今の事をも、歌の心をも知れる人、忽ちに失せなんこと尤も朝家の御憂なり、如何にもして彼二位法印が惡なからん樣を計るべしとの御事なり。輝元を始として奉行等謹みて承はり、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍を止む。元より藤孝は今を最後と思ひ切て戰ひし程に、寄手容易く引歸ること叶はず。
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