名将言行録 / 『名将言行録』細川忠興 若き武功と光秀の誘い
兵部大輔藤孝の子、越中守に任す、後從三位參議と爲り、致仕して三齋と號す、豐前に封ぜられ、小倉城に住す。正保二年十二月二日薨、年八十三。 ○忠興、幼名興市郎と云ふ。信長淀の城を攻落せし時、岩成主税助古通を、藤孝の臣下津權内打取りけり。其時、忠興幼稚なりしが、長岡監物が肩に乗りて、監物が胄の立物、鹿の角に取り付き見物して興に入りたり。人之を見て後年の生先を計りけるとぞ。 ○天正五年、信長河内片岡の城を攻めし時、忠興十五歳舍弟頓五郎(註:玄蕃允興元)十四歳、兄弟共に父に從て此日の先驅して、首取て、終に城を攻落す。信長大に感じ、兄弟に書を賜はりて之を賞せり。 ○十年、信長、明智が爲めに害せらる。此時父藤孝は丹後に在り。忠興は山陽に向はんとて、本國にぞ歸りける。光秀は、忠興が妻の父なれば、頓て丹後に使立てゝ、光秀年頃の本意遂げて織田殿父子失ひぬ。折節攝津の國闕國なれば、忠興に參らする所なり、急ぎ馳來て力を合せ給ふべしと言越せしかば、忠興父子、大に怒て返答にも及ばず、信長の爲めに髮押切り、二心なき由を心の中に誓ひ、又忠興己が妻に、子供付けて山深き所に押籠め、急ぎ秀吉の許に使を立てゝ、共に逆賊を誅すべき由牒狀して、軍勢を催せり。
新字:兵部大輔藤孝の子、越中守に任す、後従三位参議と為り、致仕して三斎と号す、豊前に封ぜられ、小倉城に住す。正保二年十二月二日薨、年八十三。 ○忠興、幼名興市郎と云ふ。信長淀の城を攻落せし時、岩成主税助古通を、藤孝の臣下津権内打取りけり。其時、忠興幼稚なりしが、長岡監物が肩に乗りて、監物が胄の立物、鹿の角に取り付き見物して興に入りたり。人之を見て後年の生先を計りけるとぞ。 ○天正五年、信長河内片岡の城を攻めし時、忠興十五歳舎弟頓五郎(註:玄蕃允興元)十四歳、兄弟共に父に従て此日の先駆して、首取て、終に城を攻落す。信長大に感じ、兄弟に書を賜はりて之を賞せり。 ○十年、信長、明智が為めに害せらる。此時父藤孝は丹後に在り。忠興は山陽に向はんとて、本国にぞ帰りける。光秀は、忠興が妻の父なれば、頓て丹後に使立てゝ、光秀年頃の本意遂げて織田殿父子失ひぬ。折節摂津の国闕国なれば、忠興に参らする所なり、急ぎ馳来て力を合せ給ふべしと言越せしかば、忠興父子、大に怒て返答にも及ばず、信長の為めに髪押切り、二心なき由を心の中に誓ひ、又忠興己が妻に、子供付けて山深き所に押籠め、急ぎ秀吉の許に使を立てゝ、共に逆賊を誅すべき由牒状して、軍勢を催せり。
書き下し
兵部大輔藤孝の子、越中守に任す、後從三位參議と爲り、致仕して三齋と號す、豐前に封ぜられ、小倉城に住す。正保二年十二月二日薨、年八十三。 ○忠興、幼名興市郎と云ふ。信長淀の城を攻落せし時、岩成主税助古通を、藤孝の臣下津權内打取りけり。其時、忠興幼稚なりしが、長岡監物が肩に乗りて、監物が胄の立物、鹿の角に取り付き見物して興に入りたり。人之を見て後年の生先を計りけるとぞ。 ○天正五年、信長河内片岡の城を攻めし時、忠興十五歳舍弟頓五郎(註:玄蕃允興元)十四歳、兄弟共に父に從て此日の先驅して、首取て、終に城を攻落す。信長大に感じ、兄弟に書を賜はりて之を賞せり。 ○十年、信長、明智が爲めに害せらる。此時父藤孝は丹後に在り。忠興は山陽に向はんとて、本國にぞ歸りける。光秀は、忠興が妻の父なれば、頓て丹後に使立てゝ、光秀年頃の本意遂げて織田殿父子失ひぬ。折節攝津の國闕國なれば、忠興に參らする所なり、急ぎ馳來て力を合せ給ふべしと言越せしかば、忠興父子、大に怒て返答にも及ばず、信長の爲めに髮押切り、二心なき由を心の中に誓ひ、又忠興己が妻に、子供付けて山深き所に押籠め、急ぎ秀吉の許に使を立てゝ、共に逆賊を誅すべき由牒狀して、軍勢を催せり。
現代語訳
兵部大輔藤孝の子で、越中守に任ぜられ、のちに従三位参議となり、引退して三斎と号しました。豊前に封ぜられ、小倉城に住みました。正保二年十二月二日に亡くなり、享年八十三です。 ○忠興は幼名を興市郎といいました。信長が淀の城を攻め落としたとき、岩成主税助友通を、藤孝の家臣の下津権内が討ち取りました。そのとき忠興は幼く、長岡監物の肩に乗って、監物の兜の飾りである鹿の角につかまって見物し、興じていました。人はこれを見て、後年の行く末を推し量ったということです。 ○天正五年、信長が河内の片岡の城を攻めたとき、忠興は十五歳、弟の頓五郎(註:玄蕃允興元)は十四歳で、兄弟ともに父に従ってこの日の先駆けをし、首を取って、ついに城を攻め落としました。信長は大いに感心し、兄弟に書状を賜って褒めました。 ○十年、信長は明智に殺されました。このとき父の藤孝は丹後にいました。忠興は山陽に向かおうと、本国に帰ったところでした。光秀は、忠興の妻の父なので、すぐに丹後に使いを立て、「光秀は年来の本意を遂げて、織田殿父子を滅ぼした。ちょうど摂津の国が欠国なので、忠興に差し上げる。急いで駆けつけて力を合わせられよ」と言ってよこしたところ、忠興父子は大いに怒って返答にも及ばず、信長のために髪を切り、二心のないことを心の中に誓い、また忠興は自分の妻に、子どもを付けて山深いところに押し込め、急いで秀吉のもとに使いを立てて、ともに逆賊を討つよう書状を送り、軍勢を催しました。
解説

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