名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 評・五十四万石の下地
學問もあり、敦養もあり、風雅の道も心得、しかも温容丁寧な武將であつたらしい。が、それだけで、五十四萬石の基礎を作つたわけでない。膂力があつたと云ふから、武將としても相當なもので、明智光秀の本能寺の變の時なども、明智の娘を、嫁にして置きながら、自重して動かなかつた。しかも、髻を切つて、信長に忠誠を示して置くなど、心得たものである。關ヶ原の時も、東軍に通じて、田邊城を守つてゐる。一國一城を保つだけの機略は、ちやんと持つてゐた人である。尤も、大身になつたのは子の忠興の力に依る點も多い。
新字:学問もあり、敦養もあり、風雅の道も心得、しかも温容丁寧な武将であつたらしい。が、それだけで、五十四万石の基礎を作つたわけでない。膂力があつたと云ふから、武将としても相当なもので、明智光秀の本能寺の変の時なども、明智の娘を、嫁にして置きながら、自重して動かなかつた。しかも、髻を切つて、信長に忠誠を示して置くなど、心得たものである。関ヶ原の時も、東軍に通じて、田辺城を守つてゐる。一国一城を保つだけの機略は、ちやんと持つてゐた人である。尤も、大身になつたのは子の忠興の力に依る点も多い。
書き下し
學問もあり、敦養もあり、風雅の道も心得、しかも温容丁寧な武將であつたらしい。が、それだけで、五十四萬石の基礎を作つたわけでない。膂力があつたと云ふから、武將としても相當なもので、明智光秀の本能寺の變の時なども、明智の娘を、嫁にして置きながら、自重して動かなかつた。しかも、髻を切つて、信長に忠誠を示して置くなど、心得たものである。關ヶ原の時も、東軍に通じて、田邊城を守つてゐる。一國一城を保つだけの機略は、ちやんと持つてゐた人である。尤も、大身になつたのは子の忠興の力に依る點も多い。
現代語訳
学問もあり、教養もあり、風雅の道も心得、しかも温容丁寧な武将であったらしい。が、それだけで、五十四万石の基礎を作ったわけでない。膂力があったというから、武将としても相当なもので、明智光秀の本能寺の変のときなども、明智の娘を、嫁にしておきながら、自重して動かなかった。しかも、髻を切って、信長に忠誠を示しておくなど、心得たものである。関ヶ原のときも、東軍に通じて、田辺城を守っている。一国一城を保つだけの機略は、ちゃんと持っていた人である。もっとも、大身になったのは子の忠興の力によるところも多い。
解説

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