名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 田辺城籠城と歌の道
○慶長五年、大坂の奉行等、田邊の城を攻落せとて、丹波、但馬の軍勢を差向く。然るべき兵をば引勝りて、忠興率ゐて會津に下る。おとなしき者共に、兵少し付けて、豐後に下して、杵築の城を守らしむ。丹後には藤孝に、老幼の者共計り殘り居て、敢果〳〵敷軍すべき者なし。去れども藤孝去る古兵にて、少しも騷ぐ氣色なく、宮津の城を捨て、田邊の城に楯籠り、敵遲しと待居たり。抑々藤孝は弓箭打物執て堪能なるのみならず、多くの技藝に通達せり。天下雙なき多才多能の人なりけり。中にも敷島の道に深く勝れて、古今和歌集の祕訣悉く藤孝に傳はれり。此度我身討死したらん後、此道長く絶なんことを悲み、城に籠る初め、相傳の書共取集めて大內へ獻るとて、『古も今も替はらぬ、世の中に、心の種を、殘す言の葉。』と云ふ一首の歌を副へてぞ參らせける。斯て丹波、但馬の軍勢雲霞の如く押寄せ、十重二十重に押取卷て火水になれと攻めけれども、藤孝少しもひるまず、防ぎ戰ふ。斯ては此城中々一時に攻落すべくも見えず。時に朝廷より烏丸右大辨光宣を勅使として大坂に下され、毛利輝光、石田三成に勅宜を傳らる。夫和歌は、我邦の風として、天地開け始まりしより此の方、百王の今に至るまで其道長く傳はれり。然るに古今の事をも、歌の心をも知れる人、忽ちに失せなんこと尤も朝家の御憂なり、如何にもして彼二位法印が惡なからん樣を計るべしとの御事なり。輝元を始として奉行等謹みて承はり、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍を止む。元より藤孝は今を最後と思ひ切て戰ひし程に、寄手容易く引歸ること叶はず。
新字:○慶長五年、大坂の奉行等、田辺の城を攻落せとて、丹波、但馬の軍勢を差向く。然るべき兵をば引勝りて、忠興率ゐて会津に下る。おとなしき者共に、兵少し付けて、豊後に下して、杵築の城を守らしむ。丹後には藤孝に、老幼の者共計り残り居て、敢果〳〵敷軍すべき者なし。去れども藤孝去る古兵にて、少しも騷ぐ気色なく、宮津の城を捨て、田辺の城に楯籠り、敵遅しと待居たり。抑々藤孝は弓箭打物執て堪能なるのみならず、多くの技芸に通達せり。天下双なき多才多能の人なりけり。中にも敷島の道に深く勝れて、古今和歌集の秘訣悉く藤孝に伝はれり。此度我身討死したらん後、此道長く絶なんことを悲み、城に籠る初め、相伝の書共取集めて大内へ献るとて、『古も今も替はらぬ、世の中に、心の種を、残す言の葉。』と云ふ一首の歌を副へてぞ参らせける。斯て丹波、但馬の軍勢雲霞の如く押寄せ、十重二十重に押取巻て火水になれと攻めけれども、藤孝少しもひるまず、防ぎ戦ふ。斯ては此城中々一時に攻落すべくも見えず。時に朝廷より烏丸右大弁光宣を勅使として大坂に下され、毛利輝光、石田三成に勅宜を伝らる。夫和歌は、我邦の風として、天地開け始まりしより此の方、百王の今に至るまで其道長く伝はれり。然るに古今の事をも、歌の心をも知れる人、忽ちに失せなんこと尤も朝家の御憂なり、如何にもして彼二位法印が悪なからん様を計るべしとの御事なり。輝元を始として奉行等謹みて承はり、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍を止む。元より藤孝は今を最後と思ひ切て戦ひし程に、寄手容易く引帰ること叶はず。
書き下し
○慶長五年、大坂の奉行等、田邊の城を攻落せとて、丹波、但馬の軍勢を差向く。然るべき兵をば引勝りて、忠興率ゐて會津に下る。おとなしき者共に、兵少し付けて、豐後に下して、杵築の城を守らしむ。丹後には藤孝に、老幼の者共計り殘り居て、敢果〳〵敷軍すべき者なし。去れども藤孝去る古兵にて、少しも騷ぐ氣色なく、宮津の城を捨て、田邊の城に楯籠り、敵遲しと待居たり。抑々藤孝は弓箭打物執て堪能なるのみならず、多くの技藝に通達せり。天下雙なき多才多能の人なりけり。中にも敷島の道に深く勝れて、古今和歌集の祕訣悉く藤孝に傳はれり。此度我身討死したらん後、此道長く絶なんことを悲み、城に籠る初め、相傳の書共取集めて大內へ獻るとて、『古も今も替はらぬ、世の中に、心の種を、殘す言の葉。』と云ふ一首の歌を副へてぞ參らせける。斯て丹波、但馬の軍勢雲霞の如く押寄せ、十重二十重に押取卷て火水になれと攻めけれども、藤孝少しもひるまず、防ぎ戰ふ。斯ては此城中々一時に攻落すべくも見えず。時に朝廷より烏丸右大辨光宣を勅使として大坂に下され、毛利輝光、石田三成に勅宜を傳らる。夫和歌は、我邦の風として、天地開け始まりしより此の方、百王の今に至るまで其道長く傳はれり。然るに古今の事をも、歌の心をも知れる人、忽ちに失せなんこと尤も朝家の御憂なり、如何にもして彼二位法印が惡なからん樣を計るべしとの御事なり。輝元を始として奉行等謹みて承はり、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍を止む。元より藤孝は今を最後と思ひ切て戰ひし程に、寄手容易く引歸ること叶はず。
現代語訳
○慶長五年、大坂の奉行らが、田辺の城を攻め落とせと、丹波・但馬の軍勢を差し向けました。主だった兵は引き抜かれ、忠興が率いて会津に下りました。おとなしい者たちに、兵を少し付けて、豊後に下し、杵築の城を守らせました。丹後には藤孝に、老人や子どもばかりが残り、てきぱきと戦える者がいませんでした。けれども藤孝は経験を積んだ古兵で、少しも騒ぐ様子がなく、宮津の城を捨てて田辺の城に立てこもり、敵が遅いと待っていました。そもそも藤孝は、弓矢や武器を取って堪能なばかりでなく、多くの技芸に通じていました。天下に並ぶ者のない多才多能の人でした。なかでも和歌の道に深くすぐれ、古今和歌集の秘訣のすべてが藤孝に伝わっていました。このたび自分が討ち死にしたあとは、この道が長く絶えるだろうと悲しみ、城に籠もるはじめに、相伝の書をことごとく集めて朝廷に献上するとして、「古も今も変わらぬ世の中に、心の種を残す言の葉」という一首の歌を添えて差し上げました。そして丹波・但馬の軍勢が雲霞のように押し寄せ、十重二十重に取り巻いて、火にも水にもなれと攻めましたが、藤孝は少しも怯まず、防ぎ戦いました。こうなってはこの城は、一時に攻め落とすことは難しく見えました。そのとき朝廷から烏丸右大弁光宣を勅使として大坂に下され、毛利輝元と石田三成に勅宣を伝えられました。「そもそも和歌は、わが国の風として、天地が開けてこのかた、百王の今に至るまで、その道が長く伝わってきた。しかるに古今のことも、歌の心も知る人が、たちまち失われることは、とくに朝廷の憂いである。なんとかして、あの二位法印に悪いことがないように計らうように」とのお言葉でした。輝元をはじめ奉行らは謹んで承り、急いで早馬を立てて寄せ手の軍を止めさせました。もとより藤孝は今を最後と思い切って戦っていたので、寄せ手も簡単には引き返すことができませんでした。
解説

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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 歌が救った追撃三淵大和守晴員の子、細川氏を冒し、從四位下に叙し、侍從兼兵部大輔に任ず、後髮を削り玄旨齋と號し、二位法印に叙す、丹後に封ぜられ、田邊城に住す。慶長十五年八月二十日卒、年七十七。 ○藤孝、初め歌道は公家兒女の業にして、武士の好むものにあらずと言て、賞翫なかりしに、或時敵を追ひけるに、追捨にして後へ早や歸らんとせしに、供の侍馬の口を押へて、今少し追て御覽あれかしと言ふ。藤孝長路人馬勞れて追付くこと難し、早や程遠くなりつらんと言ければ彼侍歌の心を以て考へ候に、『君はまだ遠くは行かじ、我袖の、涙も未だかはきはてねば』と申す古歌あり、敵の乘り捨てし馬を撫で見れば、未だ溫なれば遠くは行き申間敷と言ければ、藤孝、面白しとて、馬を引返し追ひしに、間もなく追付て分捕高名して歸れり。夫より後藤孝、歌道を好み竟に達人になれり。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 勅命による開城此由又都に聞えしかば、三條西大納言實條、綸命を含みて丹後に下向ありて、速に勅に應じ、其城を去るべしとありければ、藤孝畏て普天の下率土の濱、王臣に非ずと言ふことなしと承はる、況や此微賤の身、斯く面のあたり龍泥の辱を蒙るをや、去ながら、藤孝が年若き時ならんには、弓箭執る身の習なり、敢て死を白刄の際に決して、深く恩を黃泉の下に感ずることもあるべし、今は齡旣に傾きぬ、假令此戰に死することなからんにも、餘命又幾くぞや、去れば惜かる間敷身なるが故に、私の名譽を貪て如何で朝命を背き參らすべき、と答奉りて、頓て城をば去てけり。 ○關ヶ原役後、德川家草創の業は既に成りけれども、柳營の儀は未だ備はらず。爰に藤孝は、世々の將軍に仕へて、然も當時の有職なり。丹後を出でしより、都に登り仁和寺の邊に幽なる棲居して、悟り居たり。家康此人に付てこそ、前代の事をも訪ひ、當世の禮をも講ずべけれと、永井直勝を使として、武家の儀式、悉くに受け傳へさせられけり。去れば德川家の禮節は、內々藤孝の定めしことも、多かりしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 評・五十四万石の下地學問もあり、敦養もあり、風雅の道も心得、しかも温容丁寧な武將であつたらしい。が、それだけで、五十四萬石の基礎を作つたわけでない。膂力があつたと云ふから、武將としても相當なもので、明智光秀の本能寺の變の時なども、明智の娘を、嫁にして置きながら、自重して動かなかつた。しかも、髻を切つて、信長に忠誠を示して置くなど、心得たものである。關ヶ原の時も、東軍に通じて、田邊城を守つてゐる。一國一城を保つだけの機略は、ちやんと持つてゐた人である。尤も、大身になつたのは子の忠興の力に依る點も多い。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 叱らぬ主君と博学○藤孝、人となり謙恭物に驕らず、性溫和にして、慈惠深し。居間近き所にて、餘多の小姓共抔如何程狂ひ騷ぐとも、少しも咎むることなし。恩齋時々叱りければ、藤孝武家に使はるゝ者は、事出來れば今の間にも命を失ふものなり。かはいそうに、子供等狂ひ騷ぐとて、其樣にな制しそと、言けるにより、使はるゝ者は、己が親よりも、深く忝く思ひ、假令大名になるとも、此家を出で、別の主人を賴まん抔思ふ者はなかりしとぞ。 ○藤孝、學を好み、嘗て人に語て曰く、學問は博く學ぶべきものなり。譬へば乞兒の持ちし囊の如く、殘肉冷羹悉く貯ふるが如くすべし、博學多識にして然る後、辯論取舍することの出來るものなりと。 ○藤孝、忠興に向ひ、少し歌學をせよ、年老て後の樂みに成るものなりと言ければ、忠興某抔の憖なる歌を讀み候ては、結句御名を汚す樣なるものにて候と申す。藤孝聞て入らぬ時宜なり、其元抔の五人や、十人して汚さるゝ分にて、我等が歌道は汚るゝことにてはなしと言はれけり。忠興後々まで歌讀み習ひたらば、只今年寄りて徒然もなかるべきに、八十になりて、親の詞を實にも、と思ひ當ると言はれしとぞ。 ○松永貞德、人に語て曰く、吾藤孝に從て學べり。聚樂或は吉田、又は田邊まで慕ひ行きしが、何つも機嫌の惡きこともなく、何事を尋ぬるにも、乳呑子に、物をくゝむる樣に敎へられしと。
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名将言行録・『名将言行録』島津義久 娘との別れの歌○十五年、義久、秀吉に降り、其愛女を質とす。義久京師に至り秀吉に謁し、終て後歸らんとする時、娘と別るゝに忍びず、一首の和歌を詠じ、細川藤孝に贈る。『二た世とは契らぬものを、親と子の、別れむ袖の、哀れをも知れ。』藤孝之を秀吉に示す。秀吉之を見て惘然として、卽ち其質を返せり。義久、和歌を善くし、古今の傳授まで濟みたり。合戰の暇ある時は、此道に怠らずと云ふ。 ○家康、大阪にて本多忠勝をして、島津中務大輔豐久を召し、家康には簾內に在り、大友家、高城に寄來る時、義久後詰にて合戰に及びたる始末を聞かる。豐久退出の後、忠勝如何樣に召されしやと問ふ。家康舌を出され、首を振られ、偖々義久は兼ねて聞きしより巧者なる大將なり、其故は大友は軍議調はざる樣なれども、目に餘る大勢なり、然るを齋藤を始め、名ある武勇の者共を、義久方に打取り、味方に差したる者死せざる内、其勢を拔かさず鹽合能く人數を引揚げ、味方の損ぜざる樣に要害の地に引入て、負けて引きたる樣に大友が諸將に思はせけるは、能き怖ろしき謀なり、故に大友の諸軍勢、うか〳〵と義久が陣に掛り、もろき敗軍せしこと、古、楠木正成が須田高橋を詭はりて、天王寺に引付けたるに異ならず、義久心中如何なることを思ひ設けて、斯くは謀りしならん、豐久、田舍武士にて、言語聞屆け難きこと多しと言はれたりとぞ。