名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 叱らぬ主君と博学
○藤孝、人となり謙恭物に驕らず、性溫和にして、慈惠深し。居間近き所にて、餘多の小姓共抔如何程狂ひ騷ぐとも、少しも咎むることなし。恩齋時々叱りければ、藤孝武家に使はるゝ者は、事出來れば今の間にも命を失ふものなり。かはいそうに、子供等狂ひ騷ぐとて、其樣にな制しそと、言けるにより、使はるゝ者は、己が親よりも、深く忝く思ひ、假令大名になるとも、此家を出で、別の主人を賴まん抔思ふ者はなかりしとぞ。 ○藤孝、學を好み、嘗て人に語て曰く、學問は博く學ぶべきものなり。譬へば乞兒の持ちし囊の如く、殘肉冷羹悉く貯ふるが如くすべし、博學多識にして然る後、辯論取舍することの出來るものなりと。 ○藤孝、忠興に向ひ、少し歌學をせよ、年老て後の樂みに成るものなりと言ければ、忠興某抔の憖なる歌を讀み候ては、結句御名を汚す樣なるものにて候と申す。藤孝聞て入らぬ時宜なり、其元抔の五人や、十人して汚さるゝ分にて、我等が歌道は汚るゝことにてはなしと言はれけり。忠興後々まで歌讀み習ひたらば、只今年寄りて徒然もなかるべきに、八十になりて、親の詞を實にも、と思ひ當ると言はれしとぞ。 ○松永貞德、人に語て曰く、吾藤孝に從て學べり。聚樂或は吉田、又は田邊まで慕ひ行きしが、何つも機嫌の惡きこともなく、何事を尋ぬるにも、乳呑子に、物をくゝむる樣に敎へられしと。
新字:○藤孝、人となり謙恭物に驕らず、性温和にして、慈恵深し。居間近き所にて、余多の小姓共抔如何程狂ひ騷ぐとも、少しも咎むることなし。恩斎時々叱りければ、藤孝武家に使はるゝ者は、事出来れば今の間にも命を失ふものなり。かはいそうに、子供等狂ひ騷ぐとて、其様にな制しそと、言けるにより、使はるゝ者は、己が親よりも、深く忝く思ひ、仮令大名になるとも、此家を出で、別の主人を頼まん抔思ふ者はなかりしとぞ。 ○藤孝、学を好み、嘗て人に語て曰く、学問は博く学ぶべきものなり。譬へば乞児の持ちし嚢の如く、残肉冷羹悉く貯ふるが如くすべし、博学多識にして然る後、弁論取舎することの出来るものなりと。 ○藤孝、忠興に向ひ、少し歌学をせよ、年老て後の楽みに成るものなりと言ければ、忠興某抔の憖なる歌を読み候ては、結句御名を汚す様なるものにて候と申す。藤孝聞て入らぬ時宜なり、其元抔の五人や、十人して汚さるゝ分にて、我等が歌道は汚るゝことにてはなしと言はれけり。忠興後々まで歌読み習ひたらば、只今年寄りて徒然もなかるべきに、八十になりて、親の詞を実にも、と思ひ当ると言はれしとぞ。 ○松永貞徳、人に語て曰く、吾藤孝に従て学べり。聚楽或は吉田、又は田辺まで慕ひ行きしが、何つも機嫌の悪きこともなく、何事を尋ぬるにも、乳呑子に、物をくゝむる様に教へられしと。
書き下し
○藤孝、人となり謙恭物に驕らず、性溫和にして、慈惠深し。居間近き所にて、餘多の小姓共抔如何程狂ひ騷ぐとも、少しも咎むることなし。恩齋時々叱りければ、藤孝武家に使はるゝ者は、事出來れば今の間にも命を失ふものなり。かはいそうに、子供等狂ひ騷ぐとて、其樣にな制しそと、言けるにより、使はるゝ者は、己が親よりも、深く忝く思ひ、假令大名になるとも、此家を出で、別の主人を賴まん抔思ふ者はなかりしとぞ。 ○藤孝、學を好み、嘗て人に語て曰く、學問は博く學ぶべきものなり。譬へば乞兒の持ちし囊の如く、殘肉冷羹悉く貯ふるが如くすべし、博學多識にして然る後、辯論取舍することの出來るものなりと。 ○藤孝、忠興に向ひ、少し歌學をせよ、年老て後の樂みに成るものなりと言ければ、忠興某抔の憖なる歌を讀み候ては、結句御名を汚す樣なるものにて候と申す。藤孝聞て入らぬ時宜なり、其元抔の五人や、十人して汚さるゝ分にて、我等が歌道は汚るゝことにてはなしと言はれけり。忠興後々まで歌讀み習ひたらば、只今年寄りて徒然もなかるべきに、八十になりて、親の詞を實にも、と思ひ當ると言はれしとぞ。 ○松永貞德、人に語て曰く、吾藤孝に從て學べり。聚樂或は吉田、又は田邊まで慕ひ行きしが、何つも機嫌の惡きこともなく、何事を尋ぬるにも、乳呑子に、物をくゝむる樣に敎へられしと。
現代語訳
○藤孝は人柄が謙虚で慎み深く、物に驕らず、性質は温和で、慈しみ深い人でした。居間に近いところで、大勢の小姓たちがどれほどはしゃぎ騒いでも、少しも咎めませんでした。恩斎がときどき叱ると、藤孝は、「武家に使われる者は、事が起これば今すぐにも命を失うものだ。かわいそうに、子どもらがはしゃぎ騒ぐからといって、そのように制するな」と言ったので、使われる者たちは、自分の親よりも深く有り難く思い、たとえ大名になろうとも、この家を出て、別の主人を頼もうなどと思う者はいなかったということです。 ○藤孝は学問を好み、かつて人に語って言いました。「学問は広く学ぶべきものだ。たとえば乞食の持っている袋のように、残り物の肉や冷えた汁まで、すべてたくわえるようにするのがよい。広く学び多く識って、そののちに、論じ分けて取捨ができるのだ」と。 ○藤孝は忠興に向かって、「少し歌学をしなさい。年老いてからの楽しみになるものだ」と言うと、忠興は「私などがなまじ歌を詠んでは、かえってお名前を汚すようなものです」と申しました。藤孝は聞いて、「いらぬ遠慮だ。おまえなどの五人や十人に汚される程度のものなら、わが歌道は汚れることはない」と言われました。忠興は、後々まで、歌を詠み習っておけば、いま年寄りになって退屈もなかっただろうに、八十になって、親の言葉をなるほどと思い当たる、と言われたということです。 ○松永貞徳は、人に語って言いました。「私は藤孝に従って学んだ。聚楽や吉田、また田辺まで慕って行ったが、いつも機嫌の悪いこともなく、何を尋ねても、乳飲み子に物を含ませるように教えられた」と。
解説

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