名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 怪異を笑い飛ばす
○西海の役終て後、秀吉、薩摩の國の檢地をば藤孝に命ぜらる。或社神主僞りて、內院より色色の奇瑞あり、鳴動あり杯と申驚かしければ、能く其眞僞を糺し、箇樣の人を惑す者は、眞の神職にあらず、見懲しの爲めとて、成敗せり。又或時恩齋と云ふ者、藤孝に向ひ、今朝押への石水門へ夥しく落て候程に、愛宕山の下の坊へ、御祈念を賴み遣はすべくと申ければ、藤孝、打笑ひ、若し水門の石共が屋根へ登りたらば、祈禱すべし、上なる押への石の下へ落たるは何の怪きことかあらんと言はれけり。
新字:○西海の役終て後、秀吉、薩摩の国の検地をば藤孝に命ぜらる。或社神主偽りて、内院より色色の奇瑞あり、鳴動あり杯と申驚かしければ、能く其真偽を糺し、箇様の人を惑す者は、真の神職にあらず、見懲しの為めとて、成敗せり。又或時恩斎と云ふ者、藤孝に向ひ、今朝押への石水門へ夥しく落て候程に、愛宕山の下の坊へ、御祈念を頼み遣はすべくと申ければ、藤孝、打笑ひ、若し水門の石共が屋根へ登りたらば、祈祷すべし、上なる押への石の下へ落たるは何の怪きことかあらんと言はれけり。
書き下し
○西海の役終て後、秀吉、薩摩の國の檢地をば藤孝に命ぜらる。或社神主僞りて、內院より色色の奇瑞あり、鳴動あり杯と申驚かしければ、能く其眞僞を糺し、箇樣の人を惑す者は、眞の神職にあらず、見懲しの爲めとて、成敗せり。又或時恩齋と云ふ者、藤孝に向ひ、今朝押への石水門へ夥しく落て候程に、愛宕山の下の坊へ、御祈念を賴み遣はすべくと申ければ、藤孝、打笑ひ、若し水門の石共が屋根へ登りたらば、祈禱すべし、上なる押への石の下へ落たるは何の怪きことかあらんと言はれけり。
現代語訳
○西海の役が終わったあと、秀吉は薩摩の国の検地を藤孝に命じました。ある神社の神主が偽って、内院からいろいろな不思議なしるしがある、鳴動があるなどと言って人を驚かせたので、藤孝はその真偽をよく調べ、「このように人を惑わす者は、本当の神職ではない」と、見せしめのために成敗しました。またあるとき、恩斎という者が藤孝に向かって、「今朝、押さえの石が水門にたくさん落ちたので、愛宕山の下の坊へ、祈念を頼みにやりましょう」と言うと、藤孝は笑って、「もし水門の石どもが屋根へ登ったら、祈禱をしよう。上にある押さえの石の下へ落ちたのは、何の怪しいことがあろうか」と言われました。
解説

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