名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 撥が切れるという妙
○藤孝、似我與左衞門に太鼓を學べり。似我曰く、殘る所なき御拍子なり、然れど撥が未だ切れ申さず、是某に劣り給ふ所なりと。藤孝種々工夫しけれど、合點行かず、或時弓を射しに、絃切れければ、弓を地に投げ候て、今より太鼓の撥の切るゝと云ふことを合點したり。似我を呼びに遣はせとて、太鼓を取出し打居し所に、似我來り、之を聞き偖も〳〵太鼓の撥が初て切れし、と言ひ〳〵藤孝の前に來りしとぞ、又藤孝三井寺に參詣せし時、笛の音を聞き、爰に一骨が居るはと言て、使を遣はしければ、頓て來りけり。技藝なりと雖も、其妙に至りしこと率ね是類なり。 ○或時鯉の庖丁あり。ゑせ者ありて、火箸を通し置きたり。藤孝、庖丁を押掛け、火箸に當りし時、九寸五分にて拔打に魚版を切り落したり。名人は難に望みなづみなきものなりと言ふ。 ○九州の或小名、所司代桑原治右衞門に向ひ、此の地に我好む所の如き者あらば抱度と言ふ。如何樣の好みかと問ふ。弓箭の道は勿論歌、連歌、亂舞、手跡までも心得たる仁あれかし、我等如き小名は、多勢抱難きにより、一人して多勢の用を達する者所望なりと言ふ。桑原聞て成る程左樣の士只一人之あり候、名をば細川兵部大輔藤孝と申すが、夫を御抱候はんかと言ければ、彼小名あきれて、物も言はで歸りしとぞ。 ○藤孝著す所、九州陣道之記、東國陣道之記、伊勢物語闕疑抄、百人一首等の書あり。世に行はる。又家康の命に依り、家傳禮式三卷を獻ぜり。
新字:○藤孝、似我与左衛門に太鼓を学べり。似我曰く、残る所なき御拍子なり、然れど撥が未だ切れ申さず、是某に劣り給ふ所なりと。藤孝種々工夫しけれど、合点行かず、或時弓を射しに、絃切れければ、弓を地に投げ候て、今より太鼓の撥の切るゝと云ふことを合点したり。似我を呼びに遣はせとて、太鼓を取出し打居し所に、似我来り、之を聞き偖も〳〵太鼓の撥が初て切れし、と言ひ〳〵藤孝の前に来りしとぞ、又藤孝三井寺に参詣せし時、笛の音を聞き、爰に一骨が居るはと言て、使を遣はしければ、頓て来りけり。技芸なりと雖も、其妙に至りしこと率ね是類なり。 ○或時鯉の庖丁あり。ゑせ者ありて、火箸を通し置きたり。藤孝、庖丁を押掛け、火箸に当りし時、九寸五分にて抜打に魚版を切り落したり。名人は難に望みなづみなきものなりと言ふ。 ○九州の或小名、所司代桑原治右衛門に向ひ、此の地に我好む所の如き者あらば抱度と言ふ。如何様の好みかと問ふ。弓箭の道は勿論歌、連歌、乱舞、手跡までも心得たる仁あれかし、我等如き小名は、多勢抱難きにより、一人して多勢の用を達する者所望なりと言ふ。桑原聞て成る程左様の士只一人之あり候、名をば細川兵部大輔藤孝と申すが、夫を御抱候はんかと言ければ、彼小名あきれて、物も言はで帰りしとぞ。 ○藤孝著す所、九州陣道之記、東国陣道之記、伊勢物語闕疑抄、百人一首等の書あり。世に行はる。又家康の命に依り、家伝礼式三巻を献ぜり。
書き下し
○藤孝、似我與左衞門に太鼓を學べり。似我曰く、殘る所なき御拍子なり、然れど撥が未だ切れ申さず、是某に劣り給ふ所なりと。藤孝種々工夫しけれど、合點行かず、或時弓を射しに、絃切れければ、弓を地に投げ候て、今より太鼓の撥の切るゝと云ふことを合點したり。似我を呼びに遣はせとて、太鼓を取出し打居し所に、似我來り、之を聞き偖も〳〵太鼓の撥が初て切れし、と言ひ〳〵藤孝の前に來りしとぞ、又藤孝三井寺に參詣せし時、笛の音を聞き、爰に一骨が居るはと言て、使を遣はしければ、頓て來りけり。技藝なりと雖も、其妙に至りしこと率ね是類なり。 ○或時鯉の庖丁あり。ゑせ者ありて、火箸を通し置きたり。藤孝、庖丁を押掛け、火箸に當りし時、九寸五分にて拔打に魚版を切り落したり。名人は難に望みなづみなきものなりと言ふ。 ○九州の或小名、所司代桑原治右衞門に向ひ、此の地に我好む所の如き者あらば抱度と言ふ。如何樣の好みかと問ふ。弓箭の道は勿論歌、連歌、亂舞、手跡までも心得たる仁あれかし、我等如き小名は、多勢抱難きにより、一人して多勢の用を達する者所望なりと言ふ。桑原聞て成る程左樣の士只一人之あり候、名をば細川兵部大輔藤孝と申すが、夫を御抱候はんかと言ければ、彼小名あきれて、物も言はで歸りしとぞ。 ○藤孝著す所、九州陣道之記、東國陣道之記、伊勢物語闕疑抄、百人一首等の書あり。世に行はる。又家康の命に依り、家傳禮式三卷を獻ぜり。
現代語訳
○藤孝は似我与左衛門に太鼓を学びました。似我は、「残るところのない見事な拍子です。けれども撥がまだ切れておりません。これが私に劣るところです」と言いました。藤孝はいろいろ工夫しましたが、納得がいきませんでした。あるとき弓を射て、弦が切れたので、弓を地に投げ、「今、太鼓の撥が切れるということを合点した。似我を呼びにやれ」と言って、太鼓を取り出して打っていたところ、似我が来てこれを聞き、「さてもさても、太鼓の撥がはじめて切れた」と言いながら、藤孝の前に来たということです。また藤孝が三井寺に参詣したとき、笛の音を聞いて、「ここに一かどの者がいる」と言って、使いを遣わしたところ、すぐに来ました。技芸といえども、その妙に至ったことは、おおむねこのようなものでした。 ○あるとき鯉の庖丁がありました。いたずら者がいて、火箸を通しておきました。藤孝は庖丁を押しかけて、火箸に当たったとき、九寸五分の短刀で抜き打ちに魚板を切り落としました。名人は難に臨んでもつかえることがない、と言います。 ○九州のある小大名が、所司代の桑原治右衛門に向かって、「この地に、私が好むような者がいれば召し抱えたい」と言いました。どのような好みかと問うと、「弓矢の道はもちろん、歌、連歌、乱舞、手跡までも心得ている人がほしい。私のような小大名は、多勢を抱え難いので、一人で多勢の用を足す者がほしい」と言いました。桑原は聞いて、「なるほどそのような士は、ただ一人おります。名を細川兵部大輔藤孝と申しますが、それをお抱えになりますか」と言うと、その小大名はあきれて、物も言わずに帰ったということです。 ○藤孝の著した書に、九州陣道之記、東国陣道之記、伊勢物語闕疑抄、百人一首などがあり、世に行われています。また家康の命により、家伝礼式三巻を献上しました。
解説

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