名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 歌が救った追撃
三淵大和守晴員の子、細川氏を冒し、從四位下に叙し、侍從兼兵部大輔に任ず、後髮を削り玄旨齋と號し、二位法印に叙す、丹後に封ぜられ、田邊城に住す。慶長十五年八月二十日卒、年七十七。 ○藤孝、初め歌道は公家兒女の業にして、武士の好むものにあらずと言て、賞翫なかりしに、或時敵を追ひけるに、追捨にして後へ早や歸らんとせしに、供の侍馬の口を押へて、今少し追て御覽あれかしと言ふ。藤孝長路人馬勞れて追付くこと難し、早や程遠くなりつらんと言ければ彼侍歌の心を以て考へ候に、『君はまだ遠くは行かじ、我袖の、涙も未だかはきはてねば』と申す古歌あり、敵の乘り捨てし馬を撫で見れば、未だ溫なれば遠くは行き申間敷と言ければ、藤孝、面白しとて、馬を引返し追ひしに、間もなく追付て分捕高名して歸れり。夫より後藤孝、歌道を好み竟に達人になれり。
新字:三淵大和守晴員の子、細川氏を冒し、従四位下に叙し、侍従兼兵部大輔に任ず、後髪を削り玄旨斎と号し、二位法印に叙す、丹後に封ぜられ、田辺城に住す。慶長十五年八月二十日卒、年七十七。 ○藤孝、初め歌道は公家児女の業にして、武士の好むものにあらずと言て、賞翫なかりしに、或時敵を追ひけるに、追捨にして後へ早や帰らんとせしに、供の侍馬の口を押へて、今少し追て御覧あれかしと言ふ。藤孝長路人馬労れて追付くこと難し、早や程遠くなりつらんと言ければ彼侍歌の心を以て考へ候に、『君はまだ遠くは行かじ、我袖の、涙も未だかはきはてねば』と申す古歌あり、敵の乗り捨てし馬を撫で見れば、未だ温なれば遠くは行き申間敷と言ければ、藤孝、面白しとて、馬を引返し追ひしに、間もなく追付て分捕高名して帰れり。夫より後藤孝、歌道を好み竟に達人になれり。
書き下し
三淵大和守晴員の子、細川氏を冒し、從四位下に叙し、侍從兼兵部大輔に任ず、後髮を削り玄旨齋と號し、二位法印に叙す、丹後に封ぜられ、田邊城に住す。慶長十五年八月二十日卒、年七十七。 ○藤孝、初め歌道は公家兒女の業にして、武士の好むものにあらずと言て、賞翫なかりしに、或時敵を追ひけるに、追捨にして後へ早や歸らんとせしに、供の侍馬の口を押へて、今少し追て御覽あれかしと言ふ。藤孝長路人馬勞れて追付くこと難し、早や程遠くなりつらんと言ければ彼侍歌の心を以て考へ候に、『君はまだ遠くは行かじ、我袖の、涙も未だかはきはてねば』と申す古歌あり、敵の乘り捨てし馬を撫で見れば、未だ溫なれば遠くは行き申間敷と言ければ、藤孝、面白しとて、馬を引返し追ひしに、間もなく追付て分捕高名して歸れり。夫より後藤孝、歌道を好み竟に達人になれり。
現代語訳
三淵大和守晴員の子で、細川氏を名のり、従四位下に叙され、侍従兼兵部大輔に任じられ、のちに髪を剃って玄旨斎と号し、二位法印に叙せられました。丹後に封ぜられ、田辺城に住みました。慶長十五年八月二十日に亡くなり、享年七十七です。 ○藤孝は、はじめ歌道は公家の女子どもの業であり、武士が好むものではないと言って、たしなみませんでしたが、あるとき敵を追い、追いかけを打ち切ってもう帰ろうとしたところ、供の侍が馬の口を押さえて、「もう少し追ってご覧なさい」と言いました。藤孝が、「道のりは長く、人馬も疲れて追いつくことは難しい。もうだいぶ遠くなっているだろう」と言うと、その侍は歌の心で考えますと、「君はまだ遠くは行かじ、我が袖の、涙もいまだかわき果てねば」という古歌があります。敵が乗り捨てた馬をなでてみると、まだ温かいので、遠くには行っていないはずです」と言いました。藤孝は、面白いと馬を引き返して追ったところ、間もなく追いついて、敵の首や武具を分捕る高名を立てて帰りました。それより後、藤孝は歌道を好み、ついに達人になりました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 叱らぬ主君と博学○藤孝、人となり謙恭物に驕らず、性溫和にして、慈惠深し。居間近き所にて、餘多の小姓共抔如何程狂ひ騷ぐとも、少しも咎むることなし。恩齋時々叱りければ、藤孝武家に使はるゝ者は、事出來れば今の間にも命を失ふものなり。かはいそうに、子供等狂ひ騷ぐとて、其樣にな制しそと、言けるにより、使はるゝ者は、己が親よりも、深く忝く思ひ、假令大名になるとも、此家を出で、別の主人を賴まん抔思ふ者はなかりしとぞ。 ○藤孝、學を好み、嘗て人に語て曰く、學問は博く學ぶべきものなり。譬へば乞兒の持ちし囊の如く、殘肉冷羹悉く貯ふるが如くすべし、博學多識にして然る後、辯論取舍することの出來るものなりと。 ○藤孝、忠興に向ひ、少し歌學をせよ、年老て後の樂みに成るものなりと言ければ、忠興某抔の憖なる歌を讀み候ては、結句御名を汚す樣なるものにて候と申す。藤孝聞て入らぬ時宜なり、其元抔の五人や、十人して汚さるゝ分にて、我等が歌道は汚るゝことにてはなしと言はれけり。忠興後々まで歌讀み習ひたらば、只今年寄りて徒然もなかるべきに、八十になりて、親の詞を實にも、と思ひ當ると言はれしとぞ。 ○松永貞德、人に語て曰く、吾藤孝に從て學べり。聚樂或は吉田、又は田邊まで慕ひ行きしが、何つも機嫌の惡きこともなく、何事を尋ぬるにも、乳呑子に、物をくゝむる樣に敎へられしと。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 撥が切れるという妙○藤孝、似我與左衞門に太鼓を學べり。似我曰く、殘る所なき御拍子なり、然れど撥が未だ切れ申さず、是某に劣り給ふ所なりと。藤孝種々工夫しけれど、合點行かず、或時弓を射しに、絃切れければ、弓を地に投げ候て、今より太鼓の撥の切るゝと云ふことを合點したり。似我を呼びに遣はせとて、太鼓を取出し打居し所に、似我來り、之を聞き偖も〳〵太鼓の撥が初て切れし、と言ひ〳〵藤孝の前に來りしとぞ、又藤孝三井寺に參詣せし時、笛の音を聞き、爰に一骨が居るはと言て、使を遣はしければ、頓て來りけり。技藝なりと雖も、其妙に至りしこと率ね是類なり。 ○或時鯉の庖丁あり。ゑせ者ありて、火箸を通し置きたり。藤孝、庖丁を押掛け、火箸に當りし時、九寸五分にて拔打に魚版を切り落したり。名人は難に望みなづみなきものなりと言ふ。 ○九州の或小名、所司代桑原治右衞門に向ひ、此の地に我好む所の如き者あらば抱度と言ふ。如何樣の好みかと問ふ。弓箭の道は勿論歌、連歌、亂舞、手跡までも心得たる仁あれかし、我等如き小名は、多勢抱難きにより、一人して多勢の用を達する者所望なりと言ふ。桑原聞て成る程左樣の士只一人之あり候、名をば細川兵部大輔藤孝と申すが、夫を御抱候はんかと言ければ、彼小名あきれて、物も言はで歸りしとぞ。 ○藤孝著す所、九州陣道之記、東國陣道之記、伊勢物語闕疑抄、百人一首等の書あり。世に行はる。又家康の命に依り、家傳禮式三卷を獻ぜり。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 評・異色の武将戰國時代に於ける異色ある武將である。室町幕府時代の名家である斯波、畠山、赤松今川、山名、吉良、一色、石橋などの諸大名家は、戰國時代に殆んど亡んだ。吉良などは、やうやく高家衆として殘つたゞけである。その中で、細川家だけが、大々名として殘つたわけである。藤孝も、正統ではないにしても、細川氏を冒すだけの理由はあつたのであらう。 室町幕府の名家であるだけに、古賓や有職に明ろいので、秀吉にも、家康にも、その點で重んぜられたのであらう。關ヶ原の時、田邊(今の舞鶴)に籠城して、西軍に圍まれ危かつたのを、勅命に依つて退城したのは、何と云つても名譽のことである。子の忠興に對して(入らぬ時宜なり、その元などの五人や十人して汚さるゝ分にて、われ等が歌道は汚るゝことにてはなし)と、云つてゐるのは、甚だ痛快だが、しかし藤孝は、歌人として傑出してゐたわけでないことは、その作歌があまり傳つてゐないのでも分る。たゞ、歌學者としては、その時代としては、外に人もないので、大切な人であつたらしい。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 田辺城籠城と歌の道○慶長五年、大坂の奉行等、田邊の城を攻落せとて、丹波、但馬の軍勢を差向く。然るべき兵をば引勝りて、忠興率ゐて會津に下る。おとなしき者共に、兵少し付けて、豐後に下して、杵築の城を守らしむ。丹後には藤孝に、老幼の者共計り殘り居て、敢果〳〵敷軍すべき者なし。去れども藤孝去る古兵にて、少しも騷ぐ氣色なく、宮津の城を捨て、田邊の城に楯籠り、敵遲しと待居たり。抑々藤孝は弓箭打物執て堪能なるのみならず、多くの技藝に通達せり。天下雙なき多才多能の人なりけり。中にも敷島の道に深く勝れて、古今和歌集の祕訣悉く藤孝に傳はれり。此度我身討死したらん後、此道長く絶なんことを悲み、城に籠る初め、相傳の書共取集めて大內へ獻るとて、『古も今も替はらぬ、世の中に、心の種を、殘す言の葉。』と云ふ一首の歌を副へてぞ參らせける。斯て丹波、但馬の軍勢雲霞の如く押寄せ、十重二十重に押取卷て火水になれと攻めけれども、藤孝少しもひるまず、防ぎ戰ふ。斯ては此城中々一時に攻落すべくも見えず。時に朝廷より烏丸右大辨光宣を勅使として大坂に下され、毛利輝光、石田三成に勅宜を傳らる。夫和歌は、我邦の風として、天地開け始まりしより此の方、百王の今に至るまで其道長く傳はれり。然るに古今の事をも、歌の心をも知れる人、忽ちに失せなんこと尤も朝家の御憂なり、如何にもして彼二位法印が惡なからん樣を計るべしとの御事なり。輝元を始として奉行等謹みて承はり、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍を止む。元より藤孝は今を最後と思ひ切て戰ひし程に、寄手容易く引歸ること叶はず。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 怪力と武具の茶席○藤孝、膂力あり。牛車の意氣を得て來るに向ひ、角を持て跡へ押遣るに、牛しさりけり。又北畠信雄の邸にて、能のありける時、門番支て通さじと竹杖を振り上げければ、藤孝杖共に彼が手を強く握りしかば、骨碎け、後湯治せしとぞ。後細野入道伊三、吉田の邸に來り、物語の序に力量の事に及びければ、藤孝聞て、夫は若き時のことなり、只今は何にもかも下りたり。只歌計りは讀むことこそならね、心は上手に成りしと言はれとしぞ。 ○藤孝、當時風流の聞え高く、茶道も一流を爲す程なりき。或時蒲生氏鄕、藤孝が茶道具に富みしを聞て、其道具一覽致し度と、日を約して行きしに、細川家に名物名作の鎧、太刀、鎗等に至る武器を飾り付て見せければ、氏鄕大に驚き、所望せしは茶具のことなりと言ひしかば、藤孝聞て、道具と承はり候へば、武具とこそ心得候へ、茶具も最易き御事なりと言て、夫より茶器數種見せけり。 ○藤孝、何某の井戶茶碗を持たるを所望にて、茶の湯に行たり。某右の茶碗にて立てず、他の茶碗にて立たり。藤孝、其由を尋ねければ、井戶茶碗を出すとて、小姓の者過ちて打割り候と申す。藤孝去らば、其かけを見んと望む、其かけを出しければ、硯引寄せ『筒井筒、五つに割れし、井戶茶碗、咎をば我れが、負ひにけらしな。』と書き、小姓を罪せられ間敷と言ければ、某厚意に對し、小姓の罪を免るせしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 勅命による開城此由又都に聞えしかば、三條西大納言實條、綸命を含みて丹後に下向ありて、速に勅に應じ、其城を去るべしとありければ、藤孝畏て普天の下率土の濱、王臣に非ずと言ふことなしと承はる、況や此微賤の身、斯く面のあたり龍泥の辱を蒙るをや、去ながら、藤孝が年若き時ならんには、弓箭執る身の習なり、敢て死を白刄の際に決して、深く恩を黃泉の下に感ずることもあるべし、今は齡旣に傾きぬ、假令此戰に死することなからんにも、餘命又幾くぞや、去れば惜かる間敷身なるが故に、私の名譽を貪て如何で朝命を背き參らすべき、と答奉りて、頓て城をば去てけり。 ○關ヶ原役後、德川家草創の業は既に成りけれども、柳營の儀は未だ備はらず。爰に藤孝は、世々の將軍に仕へて、然も當時の有職なり。丹後を出でしより、都に登り仁和寺の邊に幽なる棲居して、悟り居たり。家康此人に付てこそ、前代の事をも訪ひ、當世の禮をも講ずべけれと、永井直勝を使として、武家の儀式、悉くに受け傳へさせられけり。去れば德川家の禮節は、內々藤孝の定めしことも、多かりしとぞ。