名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 怪力と武具の茶席
○藤孝、膂力あり。牛車の意氣を得て來るに向ひ、角を持て跡へ押遣るに、牛しさりけり。又北畠信雄の邸にて、能のありける時、門番支て通さじと竹杖を振り上げければ、藤孝杖共に彼が手を強く握りしかば、骨碎け、後湯治せしとぞ。後細野入道伊三、吉田の邸に來り、物語の序に力量の事に及びければ、藤孝聞て、夫は若き時のことなり、只今は何にもかも下りたり。只歌計りは讀むことこそならね、心は上手に成りしと言はれとしぞ。 ○藤孝、當時風流の聞え高く、茶道も一流を爲す程なりき。或時蒲生氏鄕、藤孝が茶道具に富みしを聞て、其道具一覽致し度と、日を約して行きしに、細川家に名物名作の鎧、太刀、鎗等に至る武器を飾り付て見せければ、氏鄕大に驚き、所望せしは茶具のことなりと言ひしかば、藤孝聞て、道具と承はり候へば、武具とこそ心得候へ、茶具も最易き御事なりと言て、夫より茶器數種見せけり。 ○藤孝、何某の井戶茶碗を持たるを所望にて、茶の湯に行たり。某右の茶碗にて立てず、他の茶碗にて立たり。藤孝、其由を尋ねければ、井戶茶碗を出すとて、小姓の者過ちて打割り候と申す。藤孝去らば、其かけを見んと望む、其かけを出しければ、硯引寄せ『筒井筒、五つに割れし、井戶茶碗、咎をば我れが、負ひにけらしな。』と書き、小姓を罪せられ間敷と言ければ、某厚意に對し、小姓の罪を免るせしとぞ。
新字:○藤孝、膂力あり。牛車の意気を得て来るに向ひ、角を持て跡へ押遣るに、牛しさりけり。又北畠信雄の邸にて、能のありける時、門番支て通さじと竹杖を振り上げければ、藤孝杖共に彼が手を強く握りしかば、骨砕け、後湯治せしとぞ。後細野入道伊三、吉田の邸に来り、物語の序に力量の事に及びければ、藤孝聞て、夫は若き時のことなり、只今は何にもかも下りたり。只歌計りは読むことこそならね、心は上手に成りしと言はれとしぞ。 ○藤孝、当時風流の聞え高く、茶道も一流を為す程なりき。或時蒲生氏郷、藤孝が茶道具に富みしを聞て、其道具一覧致し度と、日を約して行きしに、細川家に名物名作の鎧、太刀、鎗等に至る武器を飾り付て見せければ、氏郷大に驚き、所望せしは茶具のことなりと言ひしかば、藤孝聞て、道具と承はり候へば、武具とこそ心得候へ、茶具も最易き御事なりと言て、夫より茶器数種見せけり。 ○藤孝、何某の井戸茶碗を持たるを所望にて、茶の湯に行たり。某右の茶碗にて立てず、他の茶碗にて立たり。藤孝、其由を尋ねければ、井戸茶碗を出すとて、小姓の者過ちて打割り候と申す。藤孝去らば、其かけを見んと望む、其かけを出しければ、硯引寄せ『筒井筒、五つに割れし、井戸茶碗、咎をば我れが、負ひにけらしな。』と書き、小姓を罪せられ間敷と言ければ、某厚意に対し、小姓の罪を免るせしとぞ。
書き下し
○藤孝、膂力あり。牛車の意氣を得て來るに向ひ、角を持て跡へ押遣るに、牛しさりけり。又北畠信雄の邸にて、能のありける時、門番支て通さじと竹杖を振り上げければ、藤孝杖共に彼が手を強く握りしかば、骨碎け、後湯治せしとぞ。後細野入道伊三、吉田の邸に來り、物語の序に力量の事に及びければ、藤孝聞て、夫は若き時のことなり、只今は何にもかも下りたり。只歌計りは讀むことこそならね、心は上手に成りしと言はれとしぞ。 ○藤孝、當時風流の聞え高く、茶道も一流を爲す程なりき。或時蒲生氏鄕、藤孝が茶道具に富みしを聞て、其道具一覽致し度と、日を約して行きしに、細川家に名物名作の鎧、太刀、鎗等に至る武器を飾り付て見せければ、氏鄕大に驚き、所望せしは茶具のことなりと言ひしかば、藤孝聞て、道具と承はり候へば、武具とこそ心得候へ、茶具も最易き御事なりと言て、夫より茶器數種見せけり。 ○藤孝、何某の井戶茶碗を持たるを所望にて、茶の湯に行たり。某右の茶碗にて立てず、他の茶碗にて立たり。藤孝、其由を尋ねければ、井戶茶碗を出すとて、小姓の者過ちて打割り候と申す。藤孝去らば、其かけを見んと望む、其かけを出しければ、硯引寄せ『筒井筒、五つに割れし、井戶茶碗、咎をば我れが、負ひにけらしな。』と書き、小姓を罪せられ間敷と言ければ、某厚意に對し、小姓の罪を免るせしとぞ。
現代語訳
○藤孝は腕力がありました。牛車の牛が勢いづいて来たのに向かい、角をつかんで後ろへ押し返すと、牛はあとずさりました。また北畠信雄の屋敷で、能があったとき、門番が立ちふさがって通すまいと竹の杖を振り上げたところ、藤孝は杖ごと門番の手を強く握ったので、骨が砕け、後に湯治をしたということです。後に細野入道伊三が吉田の屋敷に来て、話のついでに力の話に及ぶと、藤孝は聞いて、「それは若いころのことだ。今は何もかも衰えた。ただ歌だけは詠むことができないが、心は上手になった」と言われたということです。 ○藤孝は当時風流の評判が高く、茶道も一流を成すほどでした。あるとき蒲生氏郷が、藤孝が茶道具に富んでいると聞いて、その道具を一覧したいと日を約束して訪ねたところ、細川家の名物・名作の鎧、太刀、槍などの武器を飾り付けて見せたので、氏郷は大いに驚き、「所望したのは茶の道具のことです」と言うと、藤孝は聞いて、「道具とうかがったので、武具のことと心得ました。茶具もいたって易いことです」と言って、それから茶器を数種見せました。 ○藤孝が、ある人の井戸茶碗を所望して、茶の湯に行きました。その人は、その茶碗では点てず、他の茶碗で点てました。藤孝がその訳を尋ねると、「井戸茶碗を出そうとして、小姓の者が誤って打ち割ってしまいました」と言います。藤孝が、「それならその欠けを見たい」と望み、その欠けを出したので、硯を引き寄せ、「筒井筒、五つに割れし、井戸茶碗、咎をば我れが、負ひにけらしな」と書き、小姓を罪せられぬよう言ったので、その人は厚意に対して、小姓の罪を許したということです。
解説

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