名将言行録 / 『名将言行録』細川藤孝 義昭を救い出す策
○永祿八年五月、三好松永等、將軍義輝を弑し、其弟鹿苑寺の周高を殺し、又一乘院覺慶を取籠め、之をも殺さんとす。藤孝深く痛はり、兼ねて書を通じて曰く、御不例の由僞はらせ給はば、醫師を參らせ、謀を廻らし、圍みを出し奉らんとありければ、藤孝の策の如く、寢臥安からずと觸ける所に、頓て米田壹岐守求政と云へる醫來て藥を進め、卽時に快然の體を告げ、寺内に酒を賜はりけり。辻々番の者共まで、終日酒宴に興じける、日旣に暮ければ、時こそよけれ、いざ出させ給へとて、乳母一人を供し、求政供して寺内を忍び出ければ、藤孝馳參り、供申て春日山に掛り、主從四人、暗き夜路をたどり越え、近江の國にぞ急ぎける。頓て還俗させ、義昭と申し、當國の佐々木義賢入道承禎を賴まれしが、義賢心替はりしければ、若狹に至り、武田大膳大夫義統を賴まれしかども、國小に、勢少なければ、是より越前に至り、朝倉左衞門督義景を賴まれけれども、是も果敢行べしとも見えざれば、藤孝、上野中務大輔淸信と共に使となりて美濃に赴き、織田彈正忠信長を賴まれければ、信長畏て迎の人をぞ出しける。藤孝供して美濃に至る。信長程なく敵を討破り義昭再び入京ありて、征夷將軍の宣旨を蒙られたり。
新字:○永禄八年五月、三好松永等、将軍義輝を弑し、其弟鹿苑寺の周高を殺し、又一乗院覚慶を取籠め、之をも殺さんとす。藤孝深く痛はり、兼ねて書を通じて曰く、御不例の由偽はらせ給はば、医師を参らせ、謀を廻らし、囲みを出し奉らんとありければ、藤孝の策の如く、寝臥安からずと触ける所に、頓て米田壱岐守求政と云へる医来て薬を進め、即時に快然の体を告げ、寺内に酒を賜はりけり。辻々番の者共まで、終日酒宴に興じける、日既に暮ければ、時こそよけれ、いざ出させ給へとて、乳母一人を供し、求政供して寺内を忍び出ければ、藤孝馳参り、供申て春日山に掛り、主従四人、暗き夜路をたどり越え、近江の国にぞ急ぎける。頓て還俗させ、義昭と申し、当国の佐々木義賢入道承禎を頼まれしが、義賢心替はりしければ、若狭に至り、武田大膳大夫義統を頼まれしかども、国小に、勢少なければ、是より越前に至り、朝倉左衛門督義景を頼まれけれども、是も果敢行べしとも見えざれば、藤孝、上野中務大輔清信と共に使となりて美濃に赴き、織田弾正忠信長を頼まれければ、信長畏て迎の人をぞ出しける。藤孝供して美濃に至る。信長程なく敵を討破り義昭再び入京ありて、征夷将軍の宣旨を蒙られたり。
書き下し
○永祿八年五月、三好松永等、將軍義輝を弑し、其弟鹿苑寺の周高を殺し、又一乘院覺慶を取籠め、之をも殺さんとす。藤孝深く痛はり、兼ねて書を通じて曰く、御不例の由僞はらせ給はば、醫師を參らせ、謀を廻らし、圍みを出し奉らんとありければ、藤孝の策の如く、寢臥安からずと觸ける所に、頓て米田壹岐守求政と云へる醫來て藥を進め、卽時に快然の體を告げ、寺内に酒を賜はりけり。辻々番の者共まで、終日酒宴に興じける、日旣に暮ければ、時こそよけれ、いざ出させ給へとて、乳母一人を供し、求政供して寺内を忍び出ければ、藤孝馳參り、供申て春日山に掛り、主從四人、暗き夜路をたどり越え、近江の國にぞ急ぎける。頓て還俗させ、義昭と申し、當國の佐々木義賢入道承禎を賴まれしが、義賢心替はりしければ、若狹に至り、武田大膳大夫義統を賴まれしかども、國小に、勢少なければ、是より越前に至り、朝倉左衞門督義景を賴まれけれども、是も果敢行べしとも見えざれば、藤孝、上野中務大輔淸信と共に使となりて美濃に赴き、織田彈正忠信長を賴まれければ、信長畏て迎の人をぞ出しける。藤孝供して美濃に至る。信長程なく敵を討破り義昭再び入京ありて、征夷將軍の宣旨を蒙られたり。
現代語訳
○永禄八年五月、三好・松永らが、将軍義輝を殺し、その弟の鹿苑寺の周高を殺し、また一乗院の覚慶を取り込めて、これも殺そうとしました。藤孝は深く気づかい、以前から書を通じて、「ご病気と偽ってください。医者を参らせ、策をめぐらして、囲みを出し申し上げます」と伝えていたので、藤孝の策のとおり、寝込んで具合が悪いと触れさせたところ、まもなく米田壱岐守求政という医者が来て薬を進め、すぐに快復した様子を告げ、寺内で酒を賜りました。辻々の番の者たちまで、一日じゅう酒宴に興じ、日がすでに暮れたので、「時こそよい。さあお出になりませ」と、乳母一人を供にし、求政が付き添って寺内を忍び出ると、藤孝が駆けつけてお供し、春日山にかかり、主従四人、暗い夜道をたどり越えて、近江の国へと急ぎました。やがて還俗させて義昭と申し上げ、当国の佐々木義賢入道承禎を頼まれましたが、義賢の心が変わったので、若狭に行って、武田大膳大夫義統を頼まれましたが、国が小さく勢力が少ないので、さらに越前に行って、朝倉左衛門督義景を頼まれましたが、これも頼りになりそうにないので、藤孝は上野中務大輔清信とともに使いとなって美濃に赴き、織田弾正忠信長を頼まれると、信長はかしこまって迎えの人を出しました。藤孝は供をして美濃に至りました。信長は間もなく敵を打ち破り、義昭は再び入京して、征夷大将軍の宣旨を受けられました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』細川藤孝 貧しき夜学の油去れど、義昭暗弱の人なれば、佞人の言を信じ信長の功を忘れ、却て信長を失ふべき由を企てたり。藤孝之を諫めけれども、更に用ひず、信長之を聞き、軍勢餘多引具して上京す。藤孝も信長の陣に參り、大津にて行逢ひ、打連れて都に入る。義昭打負け、和睦のこと申入られしかば信長も軍兵を引て歸る。程なく又軍起されしかば、信長大に怒て、宇治槙島淀等の城々を攻落す。義昭、命のことをば如何にも助け賜はるべき由を色々に歎き申されしに依て、信長も失ひ申までのこともなく、河內、若江の城に送り入れ、徒黨せし者共を悉く退治して、本國に歸る。斯く二度まで信長を失ふべしと結構ありしかども、何の惡なく、都を開かれしこと、內々は藤孝が信長に就て兎角捗へし故なりとぞ聞えける。 ○藤孝、近江の朽木谷に在りし時、殊の外貧くて、夜學の油を求むべき價なし。詮方なく、或社頭の燈明の油を忍〳〵に盜みて、讀書せしに、再々のことなりければ、社人も怪み番をしけるを、藤孝知らず、又行く所を見れば、日頃知りたる藤孝なり。是は意地の惡きことを爲されしと言ければ、藤孝曰く、意地惡きにてはなし、夜學の油に事を闕きし故、神も外の盜人とは替はり、御免しあるべくと思ひて取りたる由答ければ、社人も夫れ程不自由にあるべしとは存ぜずと言て油一德利贈りぬ。夫にて寬々と夜學せしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』豐臣秀吉 義昭を討たせぬ諫言○天正元年、信長宇治槇島を攻る時、秀吉、信長の前に出で、義昭公始終の御成行を何にと遊ばさるべき御賢慮にやと問ふ。信長曰く、義昭公の此度の御企實以て不當なれば、天下の爲めに、此君を除き奉ろべきなり、元より自業自得と曰ふべし。秀吉曰く、上意の趣透間なく候へ共、最早味方、川を渡して攻詰めんには、立ち所に落城致すべし、其時義昭公へ御自害を勸め奉る者あらんも量り難し、如何に柔弱におはしますとも、義昭公若し雜人の手に掛らんよりはと思召御自害あらば、後悔すとも、甲斐あらず、左あらば殿には主君を弑し給ふと、天下後世に言はれ給ふべし、但し三好長慶が萬松院殿、光源院殿、兩將軍を輔佐し奉りしこと、涯分の力を盡くし候へ共、終には逆臣の名を取て候、哀れ寛裕の御沙汰こそ願はしけれ、此處實に大切の御場合なりとありければ、信長如何にもとありて、秀吉の意に任せられけり。秀吉乃ち、河州若江の三好義繼方へ護送しけり。
-
名将言行録・『名将言行録』織田信長 軍紀の厳しさと辞退の作法○十一年九月、信長、將軍義昭を輔け兵を起し、佐々木義賢入道承禎が、箕作觀晉寺の城を陷れ、諸軍を整へて京師に入る。京師の士民、固より信長の威武を聞き、其暴掠を恐るゝこと鬼神の如く、皆荷擔して走れり。信長の至るに及びて、號令嚴明にして、秋毫も犯さず、菅谷長頼をして街市を巡行せしむ、偶々歩卒賈人と價を爭ふ者あり、卽ち之を執へて樹に縛し、京人群參の諸人に見せしむ。斯りしかば、人皆安堵して信長へ心を屬しけり。 ○信長、旣に近畿を平ぐ。朝廷、信長の功を賞し從四位下に敍し、左兵衞督に任ぜらる。信長曰く、臣天の道を以て强賊に克つことを得たり、然るを如何ぞ臣が功と成して、以て顯爵を辱せんやとて、辭しければ、則ち從五位下に敍せられ、彈正忠に任ぜらる。義昭私に信長を以て管領と爲し、副將軍の號を賜ふ。信長辭して受けず。義昭、成事を賀し、散樂十三曲を其第に張らんとす。信長諫めて曰く、方今凶賊繩に服し、四方未だ平がず、是れ未だ優遊し給ふの時にあらず、且つ諸軍士歸るを思ふ者多し、宜く式の如くし給ふて止め給ふべしと。義昭則ち省きて五曲と爲す。信長卽日兵を釋き畿內の關塞を撤し、行旅に便にせしかば、遠近悅服せり。義昭、信長の功あり賞なきを病みて書を賜はり、之を褒し、信長を呼びて父と言ふ。幾程もなく信長岐阜に歸れり。
-
名将言行録・『名将言行録』柴田勝家 老いを恐れぬ軍の始末○九月、信長、大阪、野田福島等を攻んとせし所に、淺井、朝倉攻上り、大津、松本、醍醐、山科邊を放火し、近日京都へ亂入の由聞えければ、信長大に驚き、將軍義昭を守護し、二十二日の曉天に中島を引拂ひ、二十三日凱陣せり。義昭は細川藤孝許りを召連れて早々歸京なり、信長は同日大津へ押通し、坂本に向ふ。勝家諫めて曰く、此頃京の取沙汰には、信長こそ攝津にて軍に打負け、討死せし由申しならし、上下騷動すると承はり候、且つ將軍家には、誰ありて敢果〳〵敷御供なし、願くは殿には先づ今日は將軍家を守護せられ、暫く京都へ御人數を納め入られ、御安堵の御姿を京の諸人に見せしめ、其後坂本へ御發向然るべしと。信長勇氣に餘りせき上げ、汝は不調法なることを申すもの哉、戰場に赴く者は、一刻も早く目に見たる敵をば遁さじとこそ向ふものなれば、其れへは先づ向はずして、心安き京中を經廻るべき樣やある。汝は老耄したるかと言捨て通られけり。勝家も流石鳴呼の者にて、追掛け參り、信長の馬前に至り、父土佐守より某まで二代の內、戰場に向ひて、終に老耄したる不調法は仕らず、但し四疊半敷の數奇屋に入りて、茶杯を飲み候にこそ、不調法なることもあるべく候へ、と申捨てぞ歸りける。流石信長も、返答に差支へ詞なく打通られける。勝家は夫より取て返し申す樣、若き殿の早らせ給ふに、我等が樣なる年寄の同じ樣に飛廻らば、夫こそ誠の耄者なるべし、軍は始末が大事ぞかしとて、手勢を引具し、義昭を供して京都へ歸り、九條より一條まで、勝家自身高聲に觸れけるは、信長公は御機嫌能く、攝津より御凱陣にて、淺井、朝倉御退治の爲め、直ぐに坂本に御發向なり、皆々心安く存ずべしと聞かせたり。是にて諸人安堵し、騷動も止みにけり。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 長期戦と河内の策○元龜元年、信長、光秀を召し、南方の三好、江北の淺井等を伐ち給はんとならば、先づ虎御前山に附城を築き、智勇の士を籠めて、日々攻められ、其上にて軍勢を入れ給へ、若し朝倉小谷へ後詰せば、手輕く引揚げ、朝倉引取らば、又軍勢を出し給へ、一乘より小谷までは、三十里餘にて嶮難なり。此方は岐阜より一日路餘りにて、平地なれば、人馬共に勞することなし、越前勢來らば軍勢を納れ給へ、敵歸らば兵を出し稠く敵を襲ひ幾度も斯の如く敵を惱まさねば、終には疲れ果て枝城は皆降參申べし、其時又能き圖を見計り、急に挫き給はゞ、御勝利疑ひなく候、偖又河内、若江の三好修理大夫義繼ことは、何の事も之なく、是は將軍義輝公を弑し奉りし者なれば、其咎遁間敷候、去ながら此を誅罰し給はんには、昔年河内の守護畠山右衞門佐義英が子、次郎左衞門英就は、舊領を三好に押領せられ、爲ん方なくして、同國の邊鄙に蟄し居候、是を御取立ありて、河内征伐の御勢に加へられなば、彼國の人民多く歸服致すべく、某先年遊歷致したる時分、攝津住吉の社家、松本右京亮國守が宿所にて、彼英就が一族、畠山四郎兵衞就定と申者に參會せしめ候て、畠山が仔細具に承はり候、就定儀、近年相尋ね手前に抱へ置候とぞ申ける。信長、終に、光秀の策を以て兩家を亡したり。
-
名将言行録・『名将言行録』細川忠興 若き武功と光秀の誘い兵部大輔藤孝の子、越中守に任す、後從三位參議と爲り、致仕して三齋と號す、豐前に封ぜられ、小倉城に住す。正保二年十二月二日薨、年八十三。 ○忠興、幼名興市郎と云ふ。信長淀の城を攻落せし時、岩成主税助古通を、藤孝の臣下津權内打取りけり。其時、忠興幼稚なりしが、長岡監物が肩に乗りて、監物が胄の立物、鹿の角に取り付き見物して興に入りたり。人之を見て後年の生先を計りけるとぞ。 ○天正五年、信長河内片岡の城を攻めし時、忠興十五歳舍弟頓五郎(註:玄蕃允興元)十四歳、兄弟共に父に從て此日の先驅して、首取て、終に城を攻落す。信長大に感じ、兄弟に書を賜はりて之を賞せり。 ○十年、信長、明智が爲めに害せらる。此時父藤孝は丹後に在り。忠興は山陽に向はんとて、本國にぞ歸りける。光秀は、忠興が妻の父なれば、頓て丹後に使立てゝ、光秀年頃の本意遂げて織田殿父子失ひぬ。折節攝津の國闕國なれば、忠興に參らする所なり、急ぎ馳來て力を合せ給ふべしと言越せしかば、忠興父子、大に怒て返答にも及ばず、信長の爲めに髮押切り、二心なき由を心の中に誓ひ、又忠興己が妻に、子供付けて山深き所に押籠め、急ぎ秀吉の許に使を立てゝ、共に逆賊を誅すべき由牒狀して、軍勢を催せり。