名将言行録 / 『名将言行録』明智光春 評・武士道的忠義の限界
明智左馬助の湖水渡しは、講釋でも有名である。その最期の振舞と云ひ、戰國時代武士の典型であると云つてよい。が、最後に、なぜ入江長兵衞に、武士生活のはかなさを說いたか。これでは、應仁の亂のときに、ある武士が詠んだ「取れば憂し取らねば物の數ならず捨つべきものは弓矢なりけり」と、同じ心境であると、非難せられるかも知れない。 しかし、この明智左馬助は、結局は當時の武士道の忠義が、第一義的の忠義ではなかつたからである。所謂主從道德の忠義で、眞の日本精神の忠義ではないのである。主君に對する忠義も一つの美德には違ないが、しかし天皇に對し奉る忠義とは比べものにならない。光春の如き心がけのよい忠臣も、主君の光秀が逆臣になつてしまふと、自分も逆臣の一味である。武士道から、主君には殉ずるものゝ、顧みて寂莫たるものが、あつたに違ひない。正成が、その死期に(七度人間に生れて朝敵を亡ぼさん)と、云つたやうな信念があるわけはないのである。 これが、所謂武士道的忠義と日本精神的忠義との大なる相違である。
新字:明智左馬助の湖水渡しは、講釈でも有名である。その最期の振舞と云ひ、戦国時代武士の典型であると云つてよい。が、最後に、なぜ入江長兵衛に、武士生活のはかなさを説いたか。これでは、応仁の乱のときに、ある武士が詠んだ「取れば憂し取らねば物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」と、同じ心境であると、非難せられるかも知れない。 しかし、この明智左馬助は、結局は当時の武士道の忠義が、第一義的の忠義ではなかつたからである。所謂主従道徳の忠義で、真の日本精神の忠義ではないのである。主君に対する忠義も一つの美徳には違ないが、しかし天皇に対し奉る忠義とは比べものにならない。光春の如き心がけのよい忠臣も、主君の光秀が逆臣になつてしまふと、自分も逆臣の一味である。武士道から、主君には殉ずるものゝ、顧みて寂莫たるものが、あつたに違ひない。正成が、その死期に(七度人間に生れて朝敵を亡ぼさん)と、云つたやうな信念があるわけはないのである。 これが、所謂武士道的忠義と日本精神的忠義との大なる相違である。
書き下し
明智左馬助の湖水渡しは、講釋でも有名である。その最期の振舞と云ひ、戰國時代武士の典型であると云つてよい。が、最後に、なぜ入江長兵衞に、武士生活のはかなさを說いたか。これでは、應仁の亂のときに、ある武士が詠んだ「取れば憂し取らねば物の數ならず捨つべきものは弓矢なりけり」と、同じ心境であると、非難せられるかも知れない。 しかし、この明智左馬助は、結局は當時の武士道の忠義が、第一義的の忠義ではなかつたからである。所謂主從道德の忠義で、眞の日本精神の忠義ではないのである。主君に對する忠義も一つの美德には違ないが、しかし天皇に對し奉る忠義とは比べものにならない。光春の如き心がけのよい忠臣も、主君の光秀が逆臣になつてしまふと、自分も逆臣の一味である。武士道から、主君には殉ずるものゝ、顧みて寂莫たるものが、あつたに違ひない。正成が、その死期に(七度人間に生れて朝敵を亡ぼさん)と、云つたやうな信念があるわけはないのである。 これが、所謂武士道的忠義と日本精神的忠義との大なる相違である。
現代語訳
明智左馬助の湖水渡しは、講釈でも有名である。その最期の振る舞いといい、戦国時代武士の典型であるといってよい。だが、最後に、なぜ入江長兵衛に、武士の生活のはかなさを説いたのか。これでは、応仁の乱のときに、ある武士が詠んだ「取れば憂し取らねば物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」と、同じ心境であると、非難されるかもしれない。 しかし、この明智左馬助は、結局は当時の武士道の忠義が、第一義的の忠義ではなかったからである。いわゆる主従道徳の忠義で、真の日本精神の忠義ではないのである。主君に対する忠義も一つの美徳には違いないが、しかし天皇に対し奉る忠義とは比べものにならない。光春のように心がけのよい忠臣も、主君の光秀が逆臣になってしまうと、自分も逆臣の一味である。武士道から、主君には殉じるものの、顧みて寂寞たるものが、あったに違いない。正成が、その死期に「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼさん」と言ったような信念があるはずはないのである。 これが、いわゆる武士道的忠義と日本精神的忠義との大きな相違である。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』明智光春 敵将が惜しんだ最期況て珍器名物を贈りしこと、松永久秀が志貴山滅亡の日祕藏せし平蜘の釜を碎きしとは、天地の違ひ、心の中の涼しさ、天晴惜き侍哉、三宅彌平治と云ひし浪人の昔より、今は一城の主として明智左馬助と云ふまで、所々の軍功數ふるに遑あらず、眼前大津の戰より、湖水を渡せし武邊の侍、誰か是に肩を並ぶべき、日向守が逆意は惡むべし、此者共は、日向守の恩に報いんとて斯く計り、尋常に終を取りしことの優しさよ、日向守の侍を養ひし心を織田殿に持たせたらましかば日向守が如き者も有間敷、左馬助が心を日向守に持たせたらんには、何にとて織田殿を討奉るべき。互に惜き振舞哉と言はれければ、三軍皆感歎せり。入江は光春の詞を然りとして軍終て後、仕を罷め京師に引籠りて、貨殖し、富家と成り、歡樂を極めしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・自力で得た知行明智光秀は、美濃の土岐氏の士族で、信長に仕へる前も、軍學者で可なり有名であつたらしく、三十九歳のとき四五千石で、信長に召し抱へられたと云ふから、子飼でもなければ譜代恩顧でもない。だから、本能寺異變後に、家臣に語つた言葉として(織田家に來て十七年になりぬれども、强いて信長の譜代恩顧と云ふには非ず。尤も君恩とは云ひながら、さのみ君恩と云ふに非るべし。只武勇の鋒先を以て軍功ある故なり、誠に晝夜安堵に住はず今日に至りぬ) と、ある。結局、自分の力で取つた知行だと云ふのであらう。これは、云ひ譯と云ふよりも、光秀のありのまゝの氣持であらう。 信長も、充分その實力を認めて(丹波國日向守の働き、天下の面目を施し候)と云つてゐる。とにかく、秀吉を山陽道に、光秀を山陰道に、振り分けた位だから、信長の信用も相當であつた。 謀反については、いろ〳〵な說があるが、教養があり形式を重んずる——どちらかと云へば、勿體ぶつた光秀と、戰國的豪傑である信長の奔放活達の形式破りの性格とが知らない間に相克したわけである。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・教養ある智将光秀が敎養のある智將であつたことが之で分る。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光秀 評・怒罵と儀礼の溝秀吉など、賞められるときは、信長に顏を撫でられたと云ふが、賞めるのに叱るのに武將を子供扱ひにしたわけで、秀吉あたりだと信長の怒罵も嘲笑も(心易立)として受け流せるが、儀禮を重んじ、合理を忘れ得ない光秀としては、どうにも我慢出來なくなつてゐたのであらう。信長としては、體裁ぶつて光秀を、頭ごなしにやつつける方が、却つて痛快なので、とき〴〵手きびしくきめつけたのだらう。四十萬石もの大名にしてやつたのだから、怒る筈はないと、高をくくりながら……。信長は、賞賜の點は、思ひ切つたことをしてゐる丈に、却つて油斷してゐたのだらう。淺井長政が、叛旗を飜したときなども、淺井を好遇してゐた丈に、初は容易に信じなかつたのである。人材を見つけるには、非凡の才があつたが、自分自身に對する反省が足りないために、時々かうした過誤を犯して、それがつひには、生命取りになつたのである。 當時、主人を殺した者には、赤松滿祐を初め、松永久秀、齋藤道三、宇喜多直家などがあり、信長だつて、主家の斯波を倒して自立してゐるわけである。江戸時代の君臣道德で、光秀を律するのは酷である。秀吉なども、主家の子供なら殺してゐるのである。 士を愛したことは、いろ〳〵な逸話で分る通である。一人の裏切も出ずに、大事を決行し、多くの家來は、光秀のために、潔く殉じてゐるのだから、武將としては、相當な人傑であり、政治家としても立派な素質を持つた人物である。
-
名将言行録・『名将言行録』明智光春 名物を遺して果てる○光春、既に坂本の城に入り、光秀の妻子を天守に入れ、不動國行、二字國俊の刀、藥研藤四郎の小脇差、奈良柴の肩衝、乙御前の釜抔云へる名物の器を、唐織の肩衣に包み、左馬之助自害するに、天下の重器を同じく滅せんこと無益なれば、目錄相副へ進ずる所なりと言て、天守より縋下し二の谷の冑に、羽織と黃金百兩副へて、百箇日までの弔を頼むとて、坂本の西敎寺に送り、偖大音揚げて申樣、城中未だ見苦敷者共之あり候、心靜に夜中取片付け、明朝切腹致すべく間、今日城攻猶豫の儀を斷はり申と呼はれば、寄手も少し引退きたり。夜陰に及びて、大手の門に案内を申入る者あり、入江長兵衞尉と云ふ者なり、光春に對面せんと言ふ。光春舊友の事なれば、頓て櫓の上より入江に逢ひ、訣別して後言けるは、我身死せんこと、今を限りに候、末期の一言を以て、貴殿に遺さんと言ふ。何事にて候ぞと言へば、光春曰く、我少かりし時より戰場に臨むこと、魁殿の功を志し、武名を揚んと勵みたれども、畢竟是れ身を殺し、子孫の後榮を思ふに在り。然れども、天命縮まる時は、今日の我なり、生前幾くか危險を侵し艱苦を嘗めたるも、終に成る所なくして斯の如くなりぬ、貴殿も亦斯の如くなるべきのみ。同じくは、仕を罷め、身安きに居て、危を踏まざれ、我貴殿に黃金を遺らん、之を恆の產にせられよと言て、三百兩入れたる革袋を投げ出し、城の掃除終て後、女童を刺殺し、心靜に墨磨り流し『一戰國中生。未レ知風月情。朝出師望レ魁。夕地策連レ營。依レ几臥龍術。橫レ鉾千里行。幾英名如レ夢。終節歸二清明一。』と書し、十五日曉に火を掛けて自害せり。羽柴勢坂本にては、一と合戰あるべし、殊に光春大津にての働は、見知りたり。最後の軍は嘸ぞ花々敷からんと思ひしには似もせず、矢一つも射ずして、斯く成り行きしかば、秀吉も流石に希なる侍やと、暫し感じて辭なし。
-
『武備和訓』・卷一・子どもには幼いころから義理と学問を教える一武士の子どもに總卷の比より義理を敎て、假にも利に聰からん事を禁むべし、天下にも換がたき義の一字なるに、同じ武士にて明智光秀がごとく、雪と墨とにかわる事は、是利を重むじて、義をかろんずるが故也、(利とは道なくしてみだりに人の國郡をかすむるごときの軍術などを習聞をいへり、武士軍學する事は勿論の事なれば、まづ王覇の論を尋聞て七書の義をきはめ、其後和軍を習ふべし、)君君の道を盡す時、臣臣の道を致す事は勿論なれば、忠とするに足らず、君道なき時、臣二心なきを以忠とはいふ也、光秀其性勇敢にして、誠少く、學問に志ざれば、仁義の道をしらず、僅十餘日の天下を貪りて、其名を禽獸に同ふしたり、吁慮べしや、かならず、武士の子たらん者には、利慾を戒め、學問して、仁義の勇を曉さすべき事、間斷あるべからず、