名将言行録 / 『名将言行録』明智光春 本能寺前夜の決断
○天正十年六月朔日の夜、光秀龜山城に於て、光春及び、明智治右衞門光忠、藤田藤五邦宗、齋藤內藏助利三、溝尾庄兵衞貞重五人を呼び、各々が一命を申受け度ことあり、若し叶はずんば我首を切るべしと言ふ。五人の者目と目を見合はせ、息を詰め居たりしが、光春進み出、何樣にも御意次第なりと申ければ、そこにて、光秀思ひ立ちし事を語り、今宵京都へ押寄せて、信長公御父子を討つべしと言ふ。利三、時分惡く候へば然るべからずと諫めし時、光春聞きも敢へずして、駟不レ及レ舌と申こと候、五人は他言仕る間敷けれども、天知る地知るにて事必ず顯はるべし、只急に京都に押掛け給はば、大事成就仕るべしと言ふ。光秀卽ち軍を率ゐ、西國立の武者出立を、信長公へ御目に掛くると號し、龜山を亥の刻に立、翌二日本能寺を圍み、遂に信長を弑す。光春、信長の屍を搜索するに並河金右衞門信長の首及び、白綾衣袖を獲たり。光春陰に之を匿さしむ。金右衞門功を蔭を恚ろ。光春諭して曰く、右府嘗て甲斐を伐ち、勝頼の首を罵詈せらる、今に至り人之を誹謗す、今主公にして、右府の首を覩られなば、怨恨に堪へず、必ず戮辱せられん、然らば謗を後代に遺されんこと必せり。天命實に畏るべきなり、足下の功勞は我後證とならんとありて、涙を流し、强請す。金右衞門其志に感じ光春に托す。光春乃ち僧西譽に命じ、歛葬せしむ。光秀、信長の屍を得ざるを以て齋藤利三を遣はし、光春に謂はしめて曰く、卿前鋒となり、未だ右府生死の明證を得ず、若し遁去せしめなば大事忽ち去らんと。是に於て光春實を以て告ぐ。利三感じ焦餘の白綾の衣を取り、信長の死を證せり。
新字:○天正十年六月朔日の夜、光秀亀山城に於て、光春及び、明智治右衛門光忠、藤田藤五邦宗、斎藤内蔵助利三、溝尾庄兵衛貞重五人を呼び、各々が一命を申受け度ことあり、若し叶はずんば我首を切るべしと言ふ。五人の者目と目を見合はせ、息を詰め居たりしが、光春進み出、何様にも御意次第なりと申ければ、そこにて、光秀思ひ立ちし事を語り、今宵京都へ押寄せて、信長公御父子を討つべしと言ふ。利三、時分悪く候へば然るべからずと諫めし時、光春聞きも敢へずして、駟不レ及レ舌と申こと候、五人は他言仕る間敷けれども、天知る地知るにて事必ず顕はるべし、只急に京都に押掛け給はば、大事成就仕るべしと言ふ。光秀即ち軍を率ゐ、西国立の武者出立を、信長公へ御目に掛くると号し、亀山を亥の刻に立、翌二日本能寺を囲み、遂に信長を弑す。光春、信長の屍を捜索するに並河金右衛門信長の首及び、白綾衣袖を獲たり。光春陰に之を匿さしむ。金右衛門功を蔭を恚ろ。光春諭して曰く、右府嘗て甲斐を伐ち、勝頼の首を罵詈せらる、今に至り人之を誹謗す、今主公にして、右府の首を睹られなば、怨恨に堪へず、必ず戮辱せられん、然らば謗を後代に遺されんこと必せり。天命実に畏るべきなり、足下の功労は我後証とならんとありて、涙を流し、強請す。金右衛門其志に感じ光春に托す。光春乃ち僧西誉に命じ、歛葬せしむ。光秀、信長の屍を得ざるを以て斎藤利三を遣はし、光春に謂はしめて曰く、卿前鋒となり、未だ右府生死の明証を得ず、若し遁去せしめなば大事忽ち去らんと。是に於て光春実を以て告ぐ。利三感じ焦余の白綾の衣を取り、信長の死を証せり。
書き下し
○天正十年六月朔日の夜、光秀龜山城に於て、光春及び、明智治右衞門光忠、藤田藤五邦宗、齋藤內藏助利三、溝尾庄兵衞貞重五人を呼び、各々が一命を申受け度ことあり、若し叶はずんば我首を切るべしと言ふ。五人の者目と目を見合はせ、息を詰め居たりしが、光春進み出、何樣にも御意次第なりと申ければ、そこにて、光秀思ひ立ちし事を語り、今宵京都へ押寄せて、信長公御父子を討つべしと言ふ。利三、時分惡く候へば然るべからずと諫めし時、光春聞きも敢へずして、駟不レ及レ舌と申こと候、五人は他言仕る間敷けれども、天知る地知るにて事必ず顯はるべし、只急に京都に押掛け給はば、大事成就仕るべしと言ふ。光秀卽ち軍を率ゐ、西國立の武者出立を、信長公へ御目に掛くると號し、龜山を亥の刻に立、翌二日本能寺を圍み、遂に信長を弑す。光春、信長の屍を搜索するに並河金右衞門信長の首及び、白綾衣袖を獲たり。光春陰に之を匿さしむ。金右衞門功を蔭を恚ろ。光春諭して曰く、右府嘗て甲斐を伐ち、勝頼の首を罵詈せらる、今に至り人之を誹謗す、今主公にして、右府の首を覩られなば、怨恨に堪へず、必ず戮辱せられん、然らば謗を後代に遺されんこと必せり。天命實に畏るべきなり、足下の功勞は我後證とならんとありて、涙を流し、强請す。金右衞門其志に感じ光春に托す。光春乃ち僧西譽に命じ、歛葬せしむ。光秀、信長の屍を得ざるを以て齋藤利三を遣はし、光春に謂はしめて曰く、卿前鋒となり、未だ右府生死の明證を得ず、若し遁去せしめなば大事忽ち去らんと。是に於て光春實を以て告ぐ。利三感じ焦餘の白綾の衣を取り、信長の死を證せり。
現代語訳
○天正十年六月一日の夜、光秀は亀山城で、光春と、明智治右衛門光忠、藤田藤五邦宗、斎藤内蔵助利三、溝尾庄兵衛貞重の五人を呼び、「それぞれの一命を申し受けたいことがある。もし聞き入れないなら、私の首を切れ」と言いました。五人の者は目と目を見合わせ、息を詰めていましたが、光春が進み出て、「どのようにも御意しだいです」と申しました。そこで光秀は思い立ったことを語り、「今夜京都へ押し寄せて、信長公父子を討つ」と言いました。利三が、「時期が悪いので、そうするのはよくありません」といさめたとき、光春は最後まで聞かず、「『駟も舌に及ばず』と申します。五人は他言しないでしょうが、天が知り地が知っていて、事は必ず露見します。ただ急いで京都に押しかければ、大事は成就するでしょう」と言いました。光秀はすぐに軍勢を率い、「西国へ出陣する武者の出で立ちを、信長公にお目にかける」と称して、亀山を亥の刻に出発し、翌二日に本能寺を囲み、ついに信長を殺しました。光春が信長の遺体を捜索すると、並河金右衛門が信長の首と白綾の衣の袖を手に入れていました。光春はひそかにこれを隠させました。金右衛門は手柄が隠されることを恨みました。光春は諭して言いました。「右府(信長)はかつて甲斐を討ち、勝頼の首をののしられた。今に至るまで人はこれをそしっている。いま主君(光秀)が右府の首をご覧になれば、怨みに耐えず、必ず辱められるだろう。そうなれば、そしりを後世に残すことは間違いない。天命は本当に畏れるべきものだ。あなたの功労は、私が後の証人となる」と言って、涙を流して強く頼みました。金右衛門はその志に感じ入って、光春に託しました。光春はそこで僧の西誉に命じて、遺体を納めて葬らせました。光秀は信長の遺体が得られないので、斎藤利三を遣わし、光春に言わせました。「あなたは先鋒となったが、まだ右府の生死の明らかな証拠を得ていない。もし逃げのびさせたなら、大事はたちまち去るだろう」と。そこで光春は事実を告げました。利三は感じ入り、焼け残りの白綾の衣を取って、信長の死を証明しました。
解説

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『大和俗訓』巻之四・心術下一天命は天のくだす所、人のうくる所なり。命は猶令のごとしとて、下知の意なり。天よりくだる故に天命といふ。天命に常あり変あり。善を行へば福あり、悪をすれば禍あるは常なり。善人に禍あり。悪人に福あるは変なり。人の吉凶、禍福、寿夭、富貴貧賤、万の幸不幸、皆天の命ずる所なり。人間の万事、天命にあらざる事なし。或は生れつきて定まり、或は時により不慮に命くだりて、偶然として福にあひ、わざはひにあふ。求めても命なければ得がたく、求めざれども命あれば得やすし。唯人の法を行ひて、天命をまつべし。善を行ひて福来るは常の理なれども、もし禍あるは、是また天命の変なれば、うれふべからず。およそ人天命を知りて、命にまかせ、うれひなき工夫をなすべし。天命を知らざれば、命のさだまりありて、福の求めがたく、禍の去りがたき事を知らず。利につき、害をさけんとし、人にへつらひ、神にへつらふは見ぐるし。愚なりといふべし。故に論語に、命を知らざれば以て君子たること無きなりといへり。