名将言行録 / 『名将言行録』明智光春 目見えを断った理由
○光秀、龜山在城の時、羽柴筑前守秀吉、見舞に來りければ、光秀大に喜び、老臣六人を目見させけるに、光春病と稱して出でず。光秀殘念に思ひ、筑前殿は、天下の出來大名にて之あれば、顏を見知られたるが能きに、彌平治は不仕合者なりと言ふ。秀吉歸るを、光秀馬上にて道まで送り出、偖歸る時に、茜の廣袖著たる男馬を責めて居たり。光秀之を見て、何者ぞと尋ねさせければ、三宅彌平治なりと申す。光秀殊の外不興し、光春を城へ呼寄せ、汝は日頃存ぜし所と違ひ、空氣者なり、筑前は當時天下の出來大名にて之あれば、あの樣なる衆には、顏をも見知らるゝは士の名聞なるを、作病して、目見をせざりしとて、殊の外怒て言はれければ、光春某儀は大名に見知らるゝこといやにて候、世間の侍は諸大名に見知り置かれ、重ねて其家へ身上を拵ぎ申べき手段に致し候、某儀は御家の外に主取り仕るべくとは存ぜず候故、他の大名に見知られ候て、少しも益之なく候間、態と目見に出ざる由を申ければ、光秀詞なくして奧に入りたり。
新字:○光秀、亀山在城の時、羽柴筑前守秀吉、見舞に来りければ、光秀大に喜び、老臣六人を目見させけるに、光春病と称して出でず。光秀残念に思ひ、筑前殿は、天下の出来大名にて之あれば、顔を見知られたるが能きに、弥平治は不仕合者なりと言ふ。秀吉帰るを、光秀馬上にて道まで送り出、偖帰る時に、茜の広袖著たる男馬を責めて居たり。光秀之を見て、何者ぞと尋ねさせければ、三宅弥平治なりと申す。光秀殊の外不興し、光春を城へ呼寄せ、汝は日頃存ぜし所と違ひ、空気者なり、筑前は当時天下の出来大名にて之あれば、あの様なる衆には、顔をも見知らるゝは士の名聞なるを、作病して、目見をせざりしとて、殊の外怒て言はれければ、光春某儀は大名に見知らるゝこといやにて候、世間の侍は諸大名に見知り置かれ、重ねて其家へ身上を拵ぎ申べき手段に致し候、某儀は御家の外に主取り仕るべくとは存ぜず候故、他の大名に見知られ候て、少しも益之なく候間、態と目見に出ざる由を申ければ、光秀詞なくして奥に入りたり。
書き下し
○光秀、龜山在城の時、羽柴筑前守秀吉、見舞に來りければ、光秀大に喜び、老臣六人を目見させけるに、光春病と稱して出でず。光秀殘念に思ひ、筑前殿は、天下の出來大名にて之あれば、顏を見知られたるが能きに、彌平治は不仕合者なりと言ふ。秀吉歸るを、光秀馬上にて道まで送り出、偖歸る時に、茜の廣袖著たる男馬を責めて居たり。光秀之を見て、何者ぞと尋ねさせければ、三宅彌平治なりと申す。光秀殊の外不興し、光春を城へ呼寄せ、汝は日頃存ぜし所と違ひ、空氣者なり、筑前は當時天下の出來大名にて之あれば、あの樣なる衆には、顏をも見知らるゝは士の名聞なるを、作病して、目見をせざりしとて、殊の外怒て言はれければ、光春某儀は大名に見知らるゝこといやにて候、世間の侍は諸大名に見知り置かれ、重ねて其家へ身上を拵ぎ申べき手段に致し候、某儀は御家の外に主取り仕るべくとは存ぜず候故、他の大名に見知られ候て、少しも益之なく候間、態と目見に出ざる由を申ければ、光秀詞なくして奧に入りたり。
現代語訳
○光秀が亀山城にいたとき、羽柴筑前守秀吉が見舞いに来ました。光秀は大いに喜び、老臣六人を秀吉に対面させましたが、光春は病気と称して出てきませんでした。光秀は残念に思い、「筑前殿は天下に出世した大名だから、顔を見知られておくのがよいのに、彌平治は不運な者だ」と言いました。秀吉が帰るのを、光秀は馬上から道まで送り出しましたが、そのとき、茜色の広袖を着た男が馬を責めて乗り回していました。光秀がこれを見て、何者かと尋ねさせると、三宅彌平治だと言います。光秀はたいそう不機嫌になり、光春を城へ呼び寄せて、「おまえは日ごろ思っていた人物と違い、うつけ者だ。筑前は今や天下に出世した大名であり、あのような方々に顔を見知られるのは、武士の名誉であるのに、仮病を使って対面しなかった」と、ひどく怒って言いました。光春は、「私は大名に見知られるのが嫌なのです。世間の侍は、諸大名に見知り置かれて、のちにその家で身を立てる手立てにします。私は御家のほかに主取りをしようとは思いません。ほかの大名に見知られても少しも益がないので、わざと対面に出なかったのです」と申しました。光秀は返す言葉がなく、奥へ入りました。
解説

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