名将言行録 / 『名将言行録』明智光秀 長期戦と河内の策
○元龜元年、信長、光秀を召し、南方の三好、江北の淺井等を伐ち給はんとならば、先づ虎御前山に附城を築き、智勇の士を籠めて、日々攻められ、其上にて軍勢を入れ給へ、若し朝倉小谷へ後詰せば、手輕く引揚げ、朝倉引取らば、又軍勢を出し給へ、一乘より小谷までは、三十里餘にて嶮難なり。此方は岐阜より一日路餘りにて、平地なれば、人馬共に勞することなし、越前勢來らば軍勢を納れ給へ、敵歸らば兵を出し稠く敵を襲ひ幾度も斯の如く敵を惱まさねば、終には疲れ果て枝城は皆降參申べし、其時又能き圖を見計り、急に挫き給はゞ、御勝利疑ひなく候、偖又河内、若江の三好修理大夫義繼ことは、何の事も之なく、是は將軍義輝公を弑し奉りし者なれば、其咎遁間敷候、去ながら此を誅罰し給はんには、昔年河内の守護畠山右衞門佐義英が子、次郎左衞門英就は、舊領を三好に押領せられ、爲ん方なくして、同國の邊鄙に蟄し居候、是を御取立ありて、河内征伐の御勢に加へられなば、彼國の人民多く歸服致すべく、某先年遊歷致したる時分、攝津住吉の社家、松本右京亮國守が宿所にて、彼英就が一族、畠山四郎兵衞就定と申者に參會せしめ候て、畠山が仔細具に承はり候、就定儀、近年相尋ね手前に抱へ置候とぞ申ける。信長、終に、光秀の策を以て兩家を亡したり。
新字:○元亀元年、信長、光秀を召し、南方の三好、江北の浅井等を伐ち給はんとならば、先づ虎御前山に附城を築き、智勇の士を籠めて、日々攻められ、其上にて軍勢を入れ給へ、若し朝倉小谷へ後詰せば、手軽く引揚げ、朝倉引取らば、又軍勢を出し給へ、一乗より小谷までは、三十里余にて嶮難なり。此方は岐阜より一日路余りにて、平地なれば、人馬共に労することなし、越前勢来らば軍勢を納れ給へ、敵帰らば兵を出し稠く敵を襲ひ幾度も斯の如く敵を悩まさねば、終には疲れ果て枝城は皆降参申べし、其時又能き図を見計り、急に挫き給はゞ、御勝利疑ひなく候、偖又河内、若江の三好修理大夫義継ことは、何の事も之なく、是は将軍義輝公を弑し奉りし者なれば、其咎遁間敷候、去ながら此を誅罰し給はんには、昔年河内の守護畠山右衛門佐義英が子、次郎左衛門英就は、旧領を三好に押領せられ、為ん方なくして、同国の辺鄙に蟄し居候、是を御取立ありて、河内征伐の御勢に加へられなば、彼国の人民多く帰服致すべく、某先年遊歴致したる時分、摂津住吉の社家、松本右京亮国守が宿所にて、彼英就が一族、畠山四郎兵衛就定と申者に参会せしめ候て、畠山が仔細具に承はり候、就定儀、近年相尋ね手前に抱へ置候とぞ申ける。信長、終に、光秀の策を以て両家を亡したり。
書き下し
○元龜元年、信長、光秀を召し、南方の三好、江北の淺井等を伐ち給はんとならば、先づ虎御前山に附城を築き、智勇の士を籠めて、日々攻められ、其上にて軍勢を入れ給へ、若し朝倉小谷へ後詰せば、手輕く引揚げ、朝倉引取らば、又軍勢を出し給へ、一乘より小谷までは、三十里餘にて嶮難なり。此方は岐阜より一日路餘りにて、平地なれば、人馬共に勞することなし、越前勢來らば軍勢を納れ給へ、敵歸らば兵を出し稠く敵を襲ひ幾度も斯の如く敵を惱まさねば、終には疲れ果て枝城は皆降參申べし、其時又能き圖を見計り、急に挫き給はゞ、御勝利疑ひなく候、偖又河内、若江の三好修理大夫義繼ことは、何の事も之なく、是は將軍義輝公を弑し奉りし者なれば、其咎遁間敷候、去ながら此を誅罰し給はんには、昔年河内の守護畠山右衞門佐義英が子、次郎左衞門英就は、舊領を三好に押領せられ、爲ん方なくして、同國の邊鄙に蟄し居候、是を御取立ありて、河内征伐の御勢に加へられなば、彼國の人民多く歸服致すべく、某先年遊歷致したる時分、攝津住吉の社家、松本右京亮國守が宿所にて、彼英就が一族、畠山四郎兵衞就定と申者に參會せしめ候て、畠山が仔細具に承はり候、就定儀、近年相尋ね手前に抱へ置候とぞ申ける。信長、終に、光秀の策を以て兩家を亡したり。
現代語訳
元亀元年、信長が光秀を呼びました。光秀が言うには、南方の三好、江北の浅井などを討たれるなら、まず虎御前山に付城を築いて、智勇の士を籠め、日々攻めさせ、その上で軍勢を入れなさい。もし朝倉が小谷へ後詰めをするなら、手軽く引き揚げ、朝倉が引き取るなら、また軍勢を出しなさい。一乗谷から小谷までは三十里余りで険しい道です。こちらは岐阜から一日余りの道で平地なので、人馬とも疲れません。越前勢が来たら軍勢を納め、敵が帰れば兵を出して繰り返し敵を襲い、幾度もこのように敵を悩ませれば、ついには疲れ果てて枝城は皆降参するでしょう。そのときまた良い機会を見計らって、急に挫けば、勝利は疑いありません。また河内・若江の三好修理大夫義継のことは、何の問題もありません。これは将軍義輝公を殺し奉った者なので、その咎は逃れられません。ところで、これを誅罰するなら、昔、河内の守護畠山右衛門佐義英の子、次郎左衛門英就は旧領を三好に押領され、仕方なく同国の辺鄙な所に隠れています。これを取り立てて、河内征伐の軍勢に加えれば、その国の人民は多く帰服するでしょう。私は先年遊歴したとき、摂津住吉の社家、松本右京亮国守の宿で、その英就の一族、畠山四郎兵衛就定という者に会い、畠山の事情を詳しく聞きました。就定は近年探し当てて手元に抱えております、と申しました。信長は、ついに光秀の策によって両家を滅ぼしたということです。
解説

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