名将言行録 / 『名将言行録』明智光秀 妻が髪を売った夜
○光秀貧賤なりし時、朋友打集まり輪番に汁事して談話せしことあり。光秀の順に成りければ其由妻に告ぐ。朝夕の營みすら調はざるに汁事杯は思ひも寄らざりしに、其妻甲斐々々敷受合ひ、頃て朋友打集まりければ、諸所の會席にも勝りし酒肴を調出しけり。朋友散じて後、光秀怪みて尋ねければ、妻髪鬘を剪り、市に鬻ぎて杯酒の料とせし由を答ふ。光秀大に感激し身を立て家を興し、妻の恩にも報ばやと思ひ、頃て其由曲に妻に語り、身を立てし後再會を約し、暇乞して立ち出、細川藤孝に仕へけるが、僅に八十石なり。殊に石田なれば、老臣の米田監物入道宗鑑に肥饒の地に代へて賜はれ、と度々賴みしかど、許容なかりしかば、光秀大に憤り、細川の家を立去れり。頃て身を立てし後、妻を迎へ不便を加へたり。此妻歿せし時、昔しの髪剪りし恩を報ぜんとて、自ら葬送の供をしたりしとぞ。
新字:○光秀貧賤なりし時、朋友打集まり輪番に汁事して談話せしことあり。光秀の順に成りければ其由妻に告ぐ。朝夕の営みすら調はざるに汁事杯は思ひも寄らざりしに、其妻甲斐々々敷受合ひ、頃て朋友打集まりければ、諸所の会席にも勝りし酒肴を調出しけり。朋友散じて後、光秀怪みて尋ねければ、妻髪鬘を剪り、市に鬻ぎて杯酒の料とせし由を答ふ。光秀大に感激し身を立て家を興し、妻の恩にも報ばやと思ひ、頃て其由曲に妻に語り、身を立てし後再会を約し、暇乞して立ち出、細川藤孝に仕へけるが、僅に八十石なり。殊に石田なれば、老臣の米田監物入道宗鑑に肥饒の地に代へて賜はれ、と度々頼みしかど、許容なかりしかば、光秀大に憤り、細川の家を立去れり。頃て身を立てし後、妻を迎へ不便を加へたり。此妻歿せし時、昔しの髪剪りし恩を報ぜんとて、自ら葬送の供をしたりしとぞ。
書き下し
○光秀貧賤なりし時、朋友打集まり輪番に汁事して談話せしことあり。光秀の順に成りければ其由妻に告ぐ。朝夕の營みすら調はざるに汁事杯は思ひも寄らざりしに、其妻甲斐々々敷受合ひ、頃て朋友打集まりければ、諸所の會席にも勝りし酒肴を調出しけり。朋友散じて後、光秀怪みて尋ねければ、妻髪鬘を剪り、市に鬻ぎて杯酒の料とせし由を答ふ。光秀大に感激し身を立て家を興し、妻の恩にも報ばやと思ひ、頃て其由曲に妻に語り、身を立てし後再會を約し、暇乞して立ち出、細川藤孝に仕へけるが、僅に八十石なり。殊に石田なれば、老臣の米田監物入道宗鑑に肥饒の地に代へて賜はれ、と度々賴みしかど、許容なかりしかば、光秀大に憤り、細川の家を立去れり。頃て身を立てし後、妻を迎へ不便を加へたり。此妻歿せし時、昔しの髪剪りし恩を報ぜんとて、自ら葬送の供をしたりしとぞ。
現代語訳
光秀が貧しかったとき、友人たちが集まり、持ち回りで食事を用意して語り合うことがありました。光秀の順番になったので妻に告げました。朝夕の暮らしすら調わないのに、食事の用意などは思いも寄りませんでしたが、妻は気持ちよく引き受け、やがて友人たちが集まると、どこの会席にも勝る酒肴を用意して出しました。友人たちが散った後、光秀が怪しんで尋ねると、妻は髪を切り、市で売って酒の費用にしたと答えました。光秀は大いに感激し、身を立て家を興して、妻の恩にも報いたいと思い、やがてその旨をこっそり妻に語り、身を立てた後の再会を約束して暇乞いをして出て行き、細川藤孝に仕えましたが、わずか八十石でした。特に石の多い田地だったので、老臣の米田監物入道宗鑑に、肥えた地と取り替えて賜りたいと度々頼みましたが、聞き入れられなかったので、光秀は大いに憤り、細川の家を立ち去りました。やがて身を立てた後、妻を迎えて大切にしました。この妻が亡くなったとき、昔髪を切ってくれた恩に報いようとして、自ら葬送の供をしたということです。
解説

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