名将言行録 / 『名将言行録』柴田勝家 老いを恐れぬ軍の始末
○九月、信長、大阪、野田福島等を攻んとせし所に、淺井、朝倉攻上り、大津、松本、醍醐、山科邊を放火し、近日京都へ亂入の由聞えければ、信長大に驚き、將軍義昭を守護し、二十二日の曉天に中島を引拂ひ、二十三日凱陣せり。義昭は細川藤孝許りを召連れて早々歸京なり、信長は同日大津へ押通し、坂本に向ふ。勝家諫めて曰く、此頃京の取沙汰には、信長こそ攝津にて軍に打負け、討死せし由申しならし、上下騷動すると承はり候、且つ將軍家には、誰ありて敢果〳〵敷御供なし、願くは殿には先づ今日は將軍家を守護せられ、暫く京都へ御人數を納め入られ、御安堵の御姿を京の諸人に見せしめ、其後坂本へ御發向然るべしと。信長勇氣に餘りせき上げ、汝は不調法なることを申すもの哉、戰場に赴く者は、一刻も早く目に見たる敵をば遁さじとこそ向ふものなれば、其れへは先づ向はずして、心安き京中を經廻るべき樣やある。汝は老耄したるかと言捨て通られけり。勝家も流石鳴呼の者にて、追掛け參り、信長の馬前に至り、父土佐守より某まで二代の內、戰場に向ひて、終に老耄したる不調法は仕らず、但し四疊半敷の數奇屋に入りて、茶杯を飲み候にこそ、不調法なることもあるべく候へ、と申捨てぞ歸りける。流石信長も、返答に差支へ詞なく打通られける。勝家は夫より取て返し申す樣、若き殿の早らせ給ふに、我等が樣なる年寄の同じ樣に飛廻らば、夫こそ誠の耄者なるべし、軍は始末が大事ぞかしとて、手勢を引具し、義昭を供して京都へ歸り、九條より一條まで、勝家自身高聲に觸れけるは、信長公は御機嫌能く、攝津より御凱陣にて、淺井、朝倉御退治の爲め、直ぐに坂本に御發向なり、皆々心安く存ずべしと聞かせたり。是にて諸人安堵し、騷動も止みにけり。
新字:○九月、信長、大阪、野田福島等を攻んとせし所に、浅井、朝倉攻上り、大津、松本、醍醐、山科辺を放火し、近日京都へ乱入の由聞えければ、信長大に驚き、将軍義昭を守護し、二十二日の暁天に中島を引払ひ、二十三日凱陣せり。義昭は細川藤孝許りを召連れて早々帰京なり、信長は同日大津へ押通し、坂本に向ふ。勝家諫めて曰く、此頃京の取沙汰には、信長こそ摂津にて軍に打負け、討死せし由申しならし、上下騷動すると承はり候、且つ将軍家には、誰ありて敢果〳〵敷御供なし、願くは殿には先づ今日は将軍家を守護せられ、暫く京都へ御人数を納め入られ、御安堵の御姿を京の諸人に見せしめ、其後坂本へ御発向然るべしと。信長勇気に余りせき上げ、汝は不調法なることを申すもの哉、戦場に赴く者は、一刻も早く目に見たる敵をば遁さじとこそ向ふものなれば、其れへは先づ向はずして、心安き京中を経廻るべき様やある。汝は老耄したるかと言捨て通られけり。勝家も流石鳴呼の者にて、追掛け参り、信長の馬前に至り、父土佐守より某まで二代の内、戦場に向ひて、終に老耄したる不調法は仕らず、但し四畳半敷の数奇屋に入りて、茶杯を飲み候にこそ、不調法なることもあるべく候へ、と申捨てぞ帰りける。流石信長も、返答に差支へ詞なく打通られける。勝家は夫より取て返し申す様、若き殿の早らせ給ふに、我等が様なる年寄の同じ様に飛廻らば、夫こそ誠の耄者なるべし、軍は始末が大事ぞかしとて、手勢を引具し、義昭を供して京都へ帰り、九条より一条まで、勝家自身高声に触れけるは、信長公は御機嫌能く、摂津より御凱陣にて、浅井、朝倉御退治の為め、直ぐに坂本に御発向なり、皆々心安く存ずべしと聞かせたり。是にて諸人安堵し、騷動も止みにけり。
書き下し
○九月、信長、大阪、野田福島等を攻んとせし所に、淺井、朝倉攻上り、大津、松本、醍醐、山科邊を放火し、近日京都へ亂入の由聞えければ、信長大に驚き、將軍義昭を守護し、二十二日の曉天に中島を引拂ひ、二十三日凱陣せり。義昭は細川藤孝許りを召連れて早々歸京なり、信長は同日大津へ押通し、坂本に向ふ。勝家諫めて曰く、此頃京の取沙汰には、信長こそ攝津にて軍に打負け、討死せし由申しならし、上下騷動すると承はり候、且つ將軍家には、誰ありて敢果〳〵敷御供なし、願くは殿には先づ今日は將軍家を守護せられ、暫く京都へ御人數を納め入られ、御安堵の御姿を京の諸人に見せしめ、其後坂本へ御發向然るべしと。信長勇氣に餘りせき上げ、汝は不調法なることを申すもの哉、戰場に赴く者は、一刻も早く目に見たる敵をば遁さじとこそ向ふものなれば、其れへは先づ向はずして、心安き京中を經廻るべき樣やある。汝は老耄したるかと言捨て通られけり。勝家も流石鳴呼の者にて、追掛け參り、信長の馬前に至り、父土佐守より某まで二代の內、戰場に向ひて、終に老耄したる不調法は仕らず、但し四疊半敷の數奇屋に入りて、茶杯を飲み候にこそ、不調法なることもあるべく候へ、と申捨てぞ歸りける。流石信長も、返答に差支へ詞なく打通られける。勝家は夫より取て返し申す樣、若き殿の早らせ給ふに、我等が樣なる年寄の同じ樣に飛廻らば、夫こそ誠の耄者なるべし、軍は始末が大事ぞかしとて、手勢を引具し、義昭を供して京都へ歸り、九條より一條まで、勝家自身高聲に觸れけるは、信長公は御機嫌能く、攝津より御凱陣にて、淺井、朝倉御退治の爲め、直ぐに坂本に御發向なり、皆々心安く存ずべしと聞かせたり。是にて諸人安堵し、騷動も止みにけり。
現代語訳
九月、信長が大坂や野田・福島などを攻めようとしたところ、浅井・朝倉が攻め上って、大津・松本・醍醐・山科あたりを放火し、近いうちに京都へ乱入するという噂が聞こえたので、信長は大いに驚き、将軍義昭を守護して、二十二日の明け方に中島を引き払い、二十三日に凱陣しました。義昭は細川藤孝だけを連れて早々に帰京し、信長は同日に大津へ押し通り、坂本に向かいました。勝家は諫めて言いました。このごろ京の噂では、信長公こそ摂津で戦に負けて討ち死にしたと言い合って、上下が騒いでいると聞いています。それに、将軍家にはしかるべくお供する者もいません。お願いですから、殿はまず今日は将軍家を守護して、しばらく京都へ軍勢を入れ、安堵なさった御姿を京の人々に見せ、その後に坂本へ向かうのがよいでしょう、と。信長は勇気にはやって、お前は不調法なことを言う者だ、戦場に赴く者は、一刻も早く目に見える敵を逃すまいとして向かうものだ、それを先に向かわず、安全な京中を回るなどということがあるか、お前は老いぼれたのかと言い捨てて通りました。勝家もさすがの豪の者で、追いかけて信長の馬前に至り、父土佐守から私まで二代、戦場に向かって、一度も老いぼれた不調法はいたしません、ただし四畳半の数寄屋に入って茶などを飲むなら、不調法なこともありましょう、と言い捨てて帰りました。信長もさすがに返答に詰まり、言葉もなく通り過ぎました。勝家はそれから引き返して申すには、若い殿が急ぐのに、私のような年寄りが同じように飛び回ったら、それこそ本当の老いぼれである、軍は始末が大事なのだと言って、手勢を引き連れ、義昭を供にして京都に帰り、九条から一条まで、勝家自身が大声で触れ回りました。信長公は御機嫌よく、摂津から凱陣され、浅井・朝倉退治のため、直ちに坂本へ向かわれる、皆安心せよと聞かせました。これで人々は安堵し、騒ぎもやみました。
解説

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『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
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