名将言行録 / 『名将言行録』柴田勝家 瓶割りの決断
土佐守某の子、權六と稱す。後修理亮に任ず。越前五十萬石に封ぜられ、北庄城に住す。天正十一年四月二十四日死、年五十四。 ○元龜元年六月、佐々木義賢、勝家を近江長光寺に圍み攻む。遂に總構を打破る。勝家本丸に在り、爰を專途と防ぎ戰ふ。鄕民、義賢が陣に往て、此城は水の手遠く遙なる所より水を取り候、夫を取切り給ふ程ならば、城は保つべからずと告知らせければ、義賢喜びて、水の手を取切りたり。城中是に困めども、弱われる色を顯はさず。義賢、之を見ん爲めに、和平せんとて平井甚介を使として、城中に入れたり。平井、勝家に對面し、偖四方山の物語して後、手水を請ふ。小姓則ち飯銅に水を入れ、二人して舁出で、十分に甚介に手水遣はせ、殘れる水を庭に捨たり。平井歸りて斯くと言へば、事の違ひたる故に怪みあへり。斯くて、城中既に水竭きければ、勝家明日は、打て出切死にせんとて、諸士を集め、最期の洒宴し、殘れる水を問へば、二石入の水瓶三つならではなかりけり。勝家之を舁出させ、去らば此間の渇を止めよとて、人々に汲み呑ませ、偖殘れる水の入りたる瓶を、勝家、長刀の石突にて割りたり。明れば六月四日の早天に門を開き、打出る。敵思ひも寄らざることなれば、大に敗北しぬ。勝家追撃て首八百餘級を得て、岐阜に獻じ、我身は猶長光寺に在り。信長感狀を與へ、賞せらるゝこと大方ならず。是より世人、勝家を瓶割柴田と稱しけり。
新字:土佐守某の子、権六と称す。後修理亮に任ず。越前五十万石に封ぜられ、北庄城に住す。天正十一年四月二十四日死、年五十四。 ○元亀元年六月、佐々木義賢、勝家を近江長光寺に囲み攻む。遂に総構を打破る。勝家本丸に在り、爰を専途と防ぎ戦ふ。郷民、義賢が陣に往て、此城は水の手遠く遥なる所より水を取り候、夫を取切り給ふ程ならば、城は保つべからずと告知らせければ、義賢喜びて、水の手を取切りたり。城中是に困めども、弱われる色を顕はさず。義賢、之を見ん為めに、和平せんとて平井甚介を使として、城中に入れたり。平井、勝家に対面し、偖四方山の物語して後、手水を請ふ。小姓則ち飯銅に水を入れ、二人して舁出で、十分に甚介に手水遣はせ、残れる水を庭に捨たり。平井帰りて斯くと言へば、事の違ひたる故に怪みあへり。斯くて、城中既に水竭きければ、勝家明日は、打て出切死にせんとて、諸士を集め、最期の洒宴し、残れる水を問へば、二石入の水瓶三つならではなかりけり。勝家之を舁出させ、去らば此間の渇を止めよとて、人々に汲み呑ませ、偖残れる水の入りたる瓶を、勝家、長刀の石突にて割りたり。明れば六月四日の早天に門を開き、打出る。敵思ひも寄らざることなれば、大に敗北しぬ。勝家追撃て首八百余級を得て、岐阜に献じ、我身は猶長光寺に在り。信長感状を与へ、賞せらるゝこと大方ならず。是より世人、勝家を瓶割柴田と称しけり。
書き下し
土佐守某の子、權六と稱す。後修理亮に任ず。越前五十萬石に封ぜられ、北庄城に住す。天正十一年四月二十四日死、年五十四。 ○元龜元年六月、佐々木義賢、勝家を近江長光寺に圍み攻む。遂に總構を打破る。勝家本丸に在り、爰を專途と防ぎ戰ふ。鄕民、義賢が陣に往て、此城は水の手遠く遙なる所より水を取り候、夫を取切り給ふ程ならば、城は保つべからずと告知らせければ、義賢喜びて、水の手を取切りたり。城中是に困めども、弱われる色を顯はさず。義賢、之を見ん爲めに、和平せんとて平井甚介を使として、城中に入れたり。平井、勝家に對面し、偖四方山の物語して後、手水を請ふ。小姓則ち飯銅に水を入れ、二人して舁出で、十分に甚介に手水遣はせ、殘れる水を庭に捨たり。平井歸りて斯くと言へば、事の違ひたる故に怪みあへり。斯くて、城中既に水竭きければ、勝家明日は、打て出切死にせんとて、諸士を集め、最期の洒宴し、殘れる水を問へば、二石入の水瓶三つならではなかりけり。勝家之を舁出させ、去らば此間の渇を止めよとて、人々に汲み呑ませ、偖殘れる水の入りたる瓶を、勝家、長刀の石突にて割りたり。明れば六月四日の早天に門を開き、打出る。敵思ひも寄らざることなれば、大に敗北しぬ。勝家追撃て首八百餘級を得て、岐阜に獻じ、我身は猶長光寺に在り。信長感狀を與へ、賞せらるゝこと大方ならず。是より世人、勝家を瓶割柴田と稱しけり。
現代語訳
土佐守某の子で、権六と称しました。後に修理亮に任じられ、越前五十万石に封じられ、北庄城に住みました。天正十一年四月二十四日に死去し、年は五十四です。 元亀元年六月、佐々木義賢が勝家を近江の長光寺に囲んで攻めました。ついに外構えを打ち破りました。勝家は本丸にいて、ここを命の限りと防ぎ戦いました。土地の者が義賢の陣へ行き、この城は水の手が遠く、はるかな所から水を取っています、それを断ち切るなら、城は持ちこたえられません、と告げ知らせたので、義賢は喜んで水の手を断ち切りました。城中はこれに困りましたが、弱った様子を見せません。義賢は様子を見るために、和平をと言って平井甚介を使いとして城中に入れました。平井は勝家に会って、四方山の話をしたあと、手水を求めました。小姓がたらいに水を入れ、二人で担ぎ出して、十分に甚介に手水を使わせ、残った水を庭に捨てました。平井は帰ってこのことを告げ、話が違うので皆は怪しみ合いました。そのうち城中の水がすでに尽きたので、勝家は、明日は打って出て討ち死にしようと言って、諸士を集め、最期の酒宴を開き、残った水を問うと、二石入りの水瓶が三つあるだけでした。勝家はこれを担ぎ出させ、では先日来の渇きを止めよと言って、人々に汲んで呑ませ、残りの水が入った瓶を、勝家は長刀の石突きで割りました。夜が明けて六月四日の早朝に門を開いて打って出ました。敵は思いも寄らなかったので、大いに敗北しました。勝家は追撃して首八百余級を得て岐阜に献上し、自分はなお長光寺にいました。信長は感状を与え、賞することは並大抵ではありませんでした。これより世の人は勝家を瓶割り柴田と称しました。
解説

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