名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 器用の中身を問う
○信長、子息信忠の人となりを侍臣に問ふ。内藤某一段御器用なる由、諸人ともに申候と言ければ、信長、其様子は如何かあると問ふ。内藤御客來抔ありし時、此人へは馬、或は物具小袖抔下されんと、各沙汰申候に、案に違はず、仰出され候と言ければ、信長左様なること如何ぞ、器用と言ふべきや、夫こそ不器用と言ふものなり、中々我等が後を繼ぐことは成間敷なり、仔細は下より積りの外に、刀を呉るべきと申すには小袖を呉れ、馬を遣はすべしと存ずるには代物を取らせ、此人へは重き物は賜はる間敷と取沙汰する時、其者には金子抔澤山に取らせたるこそ、國持大将の作用なれ、譬へば敵を攻むるに、加勢出ると申所へ、少しも出さず、敵に骨を折らせ出間敷と思ふ所へは、輕く出る様にてこそ、利を得らるれ、待構へ居る所へ、出ては何にとして勝利があるべきぞ、總別器用立をする者は、不器用の眞只中、分別立をする者は、無分別の蚩時分なり、武士は手の外を致し、下より積もられぬは、誠の大將なるぞと言はれけり。 ○信長曰く、嗜みの武邊は、生れながらの武邊に勝れりと。 ○信長、常に諸將を集め、謀を問ひ、其中にて善謀あるを、我思ふ所則夫ぞと言て取り行はれしとぞ。
新字:○信長、子息信忠の人となりを侍臣に問ふ。内藤某一段御器用なる由、諸人ともに申候と言ければ、信長、其様子は如何かあると問ふ。内藤御客来抔ありし時、此人へは馬、或は物具小袖抔下されんと、各沙汰申候に、案に違はず、仰出され候と言ければ、信長左様なること如何ぞ、器用と言ふべきや、夫こそ不器用と言ふものなり、中々我等が後を継ぐことは成間敷なり、仔細は下より積りの外に、刀を呉るべきと申すには小袖を呉れ、馬を遣はすべしと存ずるには代物を取らせ、此人へは重き物は賜はる間敷と取沙汰する時、其者には金子抔沢山に取らせたるこそ、国持大将の作用なれ、譬へば敵を攻むるに、加勢出ると申所へ、少しも出さず、敵に骨を折らせ出間敷と思ふ所へは、軽く出る様にてこそ、利を得らるれ、待構へ居る所へ、出ては何にとして勝利があるべきぞ、総別器用立をする者は、不器用の真只中、分別立をする者は、無分別の蚩時分なり、武士は手の外を致し、下より積もられぬは、誠の大将なるぞと言はれけり。 ○信長曰く、嗜みの武辺は、生れながらの武辺に勝れりと。 ○信長、常に諸将を集め、謀を問ひ、其中にて善謀あるを、我思ふ所則夫ぞと言て取り行はれしとぞ。
書き下し
○信長、子息信忠の人となりを侍臣に問ふ。内藤某一段御器用なる由、諸人ともに申候と言ければ、信長、其様子は如何かあると問ふ。内藤御客來抔ありし時、此人へは馬、或は物具小袖抔下されんと、各沙汰申候に、案に違はず、仰出され候と言ければ、信長左様なること如何ぞ、器用と言ふべきや、夫こそ不器用と言ふものなり、中々我等が後を繼ぐことは成間敷なり、仔細は下より積りの外に、刀を呉るべきと申すには小袖を呉れ、馬を遣はすべしと存ずるには代物を取らせ、此人へは重き物は賜はる間敷と取沙汰する時、其者には金子抔澤山に取らせたるこそ、國持大将の作用なれ、譬へば敵を攻むるに、加勢出ると申所へ、少しも出さず、敵に骨を折らせ出間敷と思ふ所へは、輕く出る様にてこそ、利を得らるれ、待構へ居る所へ、出ては何にとして勝利があるべきぞ、總別器用立をする者は、不器用の眞只中、分別立をする者は、無分別の蚩時分なり、武士は手の外を致し、下より積もられぬは、誠の大將なるぞと言はれけり。 ○信長曰く、嗜みの武邊は、生れながらの武邊に勝れりと。 ○信長、常に諸將を集め、謀を問ひ、其中にて善謀あるを、我思ふ所則夫ぞと言て取り行はれしとぞ。
現代語訳
信長が、子の信忠の人となりを侍臣に尋ねました。内藤某が、とてもお器用だと皆が申しておりますと答えると、信長は、その様子はどういうものかと問いました。内藤は、お客が来たときなど、この人には馬、あるいは武具や小袖などを下されるだろうと皆が噂すると、案の定その通りに仰せ出されます、と答えました。信長は、そんなことがどうして器用と言えるか、それこそ不器用というものだ、とても私の跡を継ぐことはできまい、というのも、下の者の見込みの外で、刀をくれるだろうと言われれば小袖を与え、馬をやるだろうと思われれば金品を取らせ、この人には重い物は賜らないだろうと噂するときに、その者に金銀などをたくさん取らせるのこそ、国持ちの大将の仕事である。たとえば、敵を攻めるとき、加勢が出ると思っている所へは少しも出さず、敵が骨を折って出まいと思う所へは、軽く出る様にしてこそ、利を得られるのだ。待ち構えている所へ出ては、どうして勝てよう。総じて器用ぶる者は不器用のまっただ中、分別ぶる者は無分別の愚かな時である。武士は手の外をして、下から見込まれぬのが、本当の大将であるぞと言いました。 信長は、嗜みの武辺は生まれながらの武辺に勝ると言いました。 信長は常に諸将を集めて謀を問い、そのなかでよい謀を言う者があれば、私が思っていたのはまさにそれだと言って取り上げたということです。
解説

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