名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 面目を雪ぐ機転と見立て
○或陣に、一瀨久三郎、信長の胃を直し居たる所に、老臣林佐渡守通勝來り、一瀨に向ひて、御胃北向なり、直され候へと屹と言ける。誤りたりとて、驚て直さんとせしを、信長此敵は一揆のことなれば、何方より來らんも知らず、其儘置き候へと言はれしかば、一瀨面目を雪ぎけり。兎角せし中に、北の森の蔭より旆こそ見えけれとて、味方進み戰て終に大利を得たり。一瀨一番に掛合うて功名せり。其晩信長一瀨を召し、今朝の事は如何にと言はれければ、御意に依て面目を雪ぎて候と言へり。信長心地よげに、感狀、褒美を與へけり。又通勝をも召して挨拶ありしとぞ。 ○信長、美濃陣に唐の頭掛けたる武者の逃くるを、池田信輝、追掛け打取らんとするに、彼武者兎角して逃延びたり。信長、信輝を召し、彼唐の頭は神子田長門にてあるべしと言ふ。聞けば神子田なり。信長、左樣にてあるべし、先日の樣なる烈敷退口は、臆病者は逃兼ね、其儘首を取らるゝものなり、利發に取廻はし、逃げすましたるは、大剛の者にてあるべしと思ひたれば、案の如く神子田なりと言て笑はれたり。
新字:○或陣に、一瀨久三郎、信長の胃を直し居たる所に、老臣林佐渡守通勝来り、一瀨に向ひて、御胃北向なり、直され候へと屹と言ける。誤りたりとて、驚て直さんとせしを、信長此敵は一揆のことなれば、何方より来らんも知らず、其儘置き候へと言はれしかば、一瀨面目を雪ぎけり。兎角せし中に、北の森の蔭より旆こそ見えけれとて、味方進み戦て終に大利を得たり。一瀨一番に掛合うて功名せり。其晩信長一瀨を召し、今朝の事は如何にと言はれければ、御意に依て面目を雪ぎて候と言へり。信長心地よげに、感状、褒美を与へけり。又通勝をも召して挨拶ありしとぞ。 ○信長、美濃陣に唐の頭掛けたる武者の逃くるを、池田信輝、追掛け打取らんとするに、彼武者兎角して逃延びたり。信長、信輝を召し、彼唐の頭は神子田長門にてあるべしと言ふ。聞けば神子田なり。信長、左様にてあるべし、先日の様なる烈敷退口は、臆病者は逃兼ね、其儘首を取らるゝものなり、利発に取廻はし、逃げすましたるは、大剛の者にてあるべしと思ひたれば、案の如く神子田なりと言て笑はれたり。
書き下し
○或陣に、一瀨久三郎、信長の胃を直し居たる所に、老臣林佐渡守通勝來り、一瀨に向ひて、御胃北向なり、直され候へと屹と言ける。誤りたりとて、驚て直さんとせしを、信長此敵は一揆のことなれば、何方より來らんも知らず、其儘置き候へと言はれしかば、一瀨面目を雪ぎけり。兎角せし中に、北の森の蔭より旆こそ見えけれとて、味方進み戰て終に大利を得たり。一瀨一番に掛合うて功名せり。其晩信長一瀨を召し、今朝の事は如何にと言はれければ、御意に依て面目を雪ぎて候と言へり。信長心地よげに、感狀、褒美を與へけり。又通勝をも召して挨拶ありしとぞ。 ○信長、美濃陣に唐の頭掛けたる武者の逃くるを、池田信輝、追掛け打取らんとするに、彼武者兎角して逃延びたり。信長、信輝を召し、彼唐の頭は神子田長門にてあるべしと言ふ。聞けば神子田なり。信長、左樣にてあるべし、先日の樣なる烈敷退口は、臆病者は逃兼ね、其儘首を取らるゝものなり、利發に取廻はし、逃げすましたるは、大剛の者にてあるべしと思ひたれば、案の如く神子田なりと言て笑はれたり。
現代語訳
或る陣で、一瀨久三郎が信長の兜を直しているところへ、老臣の林佐渡守通勝が来て、一瀨に向かい、御兜が北向きだ、直せとはっきり言いました。一瀨は誤りだったと驚いて直そうとしましたが、信長は、この敵は一揆のことだからどこから来るかもわからない、そのままにしておけと言いました。一瀨はそれで面目を取り戻しました。そうこうするうち、北の森のかげから旗が見えたと報せがあり、味方は進んで戦い、ついに大勝を得ました。一瀨は一番に掛け合って手柄を立てました。その晩、信長は一瀨を呼び、今朝のことはどうだったと言うと、お言葉によって面目を取り戻しました、と答えました。信長は心地よげに、感状と褒美を与えました。また通勝をも呼んで声をかけたということです。 信長が美濃の陣にいたとき、唐の頭をつけた武者が逃げるのを、池田信輝が追いかけて討とうとしましたが、その武者はどうにか逃げ延びました。信長は信輝を呼び、あの唐の頭は神子田長門だろうと言います。聞けば神子田でした。信長は、そうだろう、先日のような激しい退き口では、臆病者は逃げきれず、そのまま首を取られるものだ、巧みに立ち回って逃げおおせたのは、大剛の者に違いないと思っていたが、やはり神子田だったと言って笑いました。
解説

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