名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 手柄への褒め言葉を選ぶ
○十年三月、信忠高遠城を攻落せし時、山口小辨、佐々清藏、ともに十六歲にて功名せり。信長、小辨を呼び、此度高遠にての働き、希代の至なり。城介が目利を違へず一入滿足なりと譽め、手づから國久の腰物に、感狀を副へて賜はりたり。次に清藏を呼び、高遠の働き骨折の由但し汝は手柄致す筈なり、大剛の內藏助が甥なればなりと言て、長光の腰物に感狀を副へて賜はれり。小辨は伏見賤人の子なれば、手柄高名誠に希代なり、清藏は伯父內藏助の名まで揚げたる稱美の詞なり、其一言だも忽にせざること斯の如し。 ○或役、信長先手敗北し、旣に旗本まで危く見えたる時、信長尾藤甚左衞門はあらざるかと尋ねられける時、三の備に罷在ると答ふ。然らば苦しからずとて騷がるゝ色なし。案の如く二の備まで切立られしに、三の備にて受留め突返し、敵敗れて引退けり。 ○信長、害に逢ふ年の正月、大小名連枝の人々を始め、皆禮を申時に、何れも獻上の禮錢十疋づゝ、自身持參せり。是は信長兼ねて觸れしに依てなり。其禮儀を正し、儉素なること斯の如し。去れども、又伊勢兩宮造營の年限に當りしかば、右費用として永樂錢三千貫文を調進せり。故に今日に至り、右の例に從ひ、三萬石を宛行はるゝと云ふ。
新字:○十年三月、信忠高遠城を攻落せし時、山口小弁、佐々清蔵、ともに十六歳にて功名せり。信長、小弁を呼び、此度高遠にての働き、希代の至なり。城介が目利を違へず一入満足なりと誉め、手づから国久の腰物に、感状を副へて賜はりたり。次に清蔵を呼び、高遠の働き骨折の由但し汝は手柄致す筈なり、大剛の内蔵助が甥なればなりと言て、長光の腰物に感状を副へて賜はれり。小弁は伏見賤人の子なれば、手柄高名誠に希代なり、清蔵は伯父内蔵助の名まで揚げたる称美の詞なり、其一言だも忽にせざること斯の如し。 ○或役、信長先手敗北し、既に旗本まで危く見えたる時、信長尾藤甚左衛門はあらざるかと尋ねられける時、三の備に罷在ると答ふ。然らば苦しからずとて騷がるゝ色なし。案の如く二の備まで切立られしに、三の備にて受留め突返し、敵敗れて引退けり。 ○信長、害に逢ふ年の正月、大小名連枝の人々を始め、皆礼を申時に、何れも献上の礼銭十疋づゝ、自身持参せり。是は信長兼ねて触れしに依てなり。其礼儀を正し、倹素なること斯の如し。去れども、又伊勢両宮造営の年限に当りしかば、右費用として永楽銭三千貫文を調進せり。故に今日に至り、右の例に従ひ、三万石を宛行はるゝと云ふ。
書き下し
○十年三月、信忠高遠城を攻落せし時、山口小辨、佐々清藏、ともに十六歲にて功名せり。信長、小辨を呼び、此度高遠にての働き、希代の至なり。城介が目利を違へず一入滿足なりと譽め、手づから國久の腰物に、感狀を副へて賜はりたり。次に清藏を呼び、高遠の働き骨折の由但し汝は手柄致す筈なり、大剛の內藏助が甥なればなりと言て、長光の腰物に感狀を副へて賜はれり。小辨は伏見賤人の子なれば、手柄高名誠に希代なり、清藏は伯父內藏助の名まで揚げたる稱美の詞なり、其一言だも忽にせざること斯の如し。 ○或役、信長先手敗北し、旣に旗本まで危く見えたる時、信長尾藤甚左衞門はあらざるかと尋ねられける時、三の備に罷在ると答ふ。然らば苦しからずとて騷がるゝ色なし。案の如く二の備まで切立られしに、三の備にて受留め突返し、敵敗れて引退けり。 ○信長、害に逢ふ年の正月、大小名連枝の人々を始め、皆禮を申時に、何れも獻上の禮錢十疋づゝ、自身持參せり。是は信長兼ねて觸れしに依てなり。其禮儀を正し、儉素なること斯の如し。去れども、又伊勢兩宮造營の年限に當りしかば、右費用として永樂錢三千貫文を調進せり。故に今日に至り、右の例に從ひ、三萬石を宛行はるゝと云ふ。
現代語訳
十年三月、信忠が高遠城を攻め落としたとき、山口小辨と佐々清藏は、ともに十六歳で手柄を立てました。信長は小辨を呼び、このたび高遠での働きはまれに見るものだ、城介が人を見る目を誤らなかったことが一段と満足だと褒め、自ら国久の刀に感状を添えて与えました。次に清藏を呼び、高遠での働きは骨折りだった、ただしお前は手柄を立てて当然だ、大剛の内藏助の甥なのだからと言って、長光の刀に感状を添えて与えました。小辨は伏見の身分の低い者の子なので手柄はまことにまれであり、清藏は伯父内藏助の名まで引き立てた称賛の言葉でした。信長はそのひと言さえおろそかにしなかったということです。 或る戦いで、信長の先手が敗れ、すでに本陣まで危うく見えたとき、信長は尾藤甚左衞門はいないのかと尋ねました。三番目の備えにおりますと答えると、それなら心配ないと言って、少しも騒ぐ様子がありません。案の定、二番目の備えまで切り立てられましたが、三番目の備えが受け止めて突き返し、敵は敗れて退きました。 信長が害に遭った年の正月、大名や一族の人々が挨拶に来たとき、誰もが献上の礼銭として十疋ずつを自ら持参しました。これは信長があらかじめ触れていたからです。礼儀を正し、倹約であることはこの通りでした。しかし一方、伊勢の両宮造営の年にあたると、その費用として永楽銭三千貫文を差し出しました。そのため今日に至るまで、この例にならって三万石を与えられているということです。
解説

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