名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 荷の軽重と浅井への配慮
○十二年正月、三好の黨、義昭を六條の第に圍むと聞えければ信長急に兵を出す。信長馬に跨る時馬に駄する者輕重偏頗あると言て、相爭ひて、喧嘩す。信長馬より下り、悉く親ら擧げて以て之を試みて曰く、皆輕重なし、急に馳すべしとありければ、爭ひ頓に止みたり。 ○信長、淺井備前守長政と二條の御所を築きし時、僅の事より始まり、信長勢と長政勢と鬪爭起り、信長勢五百六十人、長政勢三百五十人ぞ死したりける。事終りて後、柴田勝家、森可成信長の前に出で、淺井が者共云々の狼藉に及び候間、急度仰付られ然るべくと申す。信長笑ひ備前守とても、左樣の狼藉は仕間敷なり、我之を推量するに、箕作の城攻の時、淺井殊の外に鈍かりしを、我家の者共が侮りて萬づ我儘に惡口したる故、淺井方にも腹立て箇樣に振舞ふと見えたり、淺井は代々弓箭執て譽れあり、向後淺井に粗忽なることを言掛け、我を恨ましむるなと言はれければ、柴田、森も詞なく退出せり。果して信長の言の如し。
新字:○十二年正月、三好の党、義昭を六条の第に囲むと聞えければ信長急に兵を出す。信長馬に跨る時馬に駄する者軽重偏頗あると言て、相争ひて、喧嘩す。信長馬より下り、悉く親ら挙げて以て之を試みて曰く、皆軽重なし、急に馳すべしとありければ、争ひ頓に止みたり。 ○信長、浅井備前守長政と二条の御所を築きし時、僅の事より始まり、信長勢と長政勢と闘争起り、信長勢五百六十人、長政勢三百五十人ぞ死したりける。事終りて後、柴田勝家、森可成信長の前に出で、浅井が者共云々の狼藉に及び候間、急度仰付られ然るべくと申す。信長笑ひ備前守とても、左様の狼藉は仕間敷なり、我之を推量するに、箕作の城攻の時、浅井殊の外に鈍かりしを、我家の者共が侮りて万づ我儘に悪口したる故、浅井方にも腹立て箇様に振舞ふと見えたり、浅井は代々弓箭執て誉れあり、向後浅井に粗忽なることを言掛け、我を恨ましむるなと言はれければ、柴田、森も詞なく退出せり。果して信長の言の如し。
書き下し
○十二年正月、三好の黨、義昭を六條の第に圍むと聞えければ信長急に兵を出す。信長馬に跨る時馬に駄する者輕重偏頗あると言て、相爭ひて、喧嘩す。信長馬より下り、悉く親ら擧げて以て之を試みて曰く、皆輕重なし、急に馳すべしとありければ、爭ひ頓に止みたり。 ○信長、淺井備前守長政と二條の御所を築きし時、僅の事より始まり、信長勢と長政勢と鬪爭起り、信長勢五百六十人、長政勢三百五十人ぞ死したりける。事終りて後、柴田勝家、森可成信長の前に出で、淺井が者共云々の狼藉に及び候間、急度仰付られ然るべくと申す。信長笑ひ備前守とても、左樣の狼藉は仕間敷なり、我之を推量するに、箕作の城攻の時、淺井殊の外に鈍かりしを、我家の者共が侮りて萬づ我儘に惡口したる故、淺井方にも腹立て箇樣に振舞ふと見えたり、淺井は代々弓箭執て譽れあり、向後淺井に粗忽なることを言掛け、我を恨ましむるなと言はれければ、柴田、森も詞なく退出せり。果して信長の言の如し。
現代語訳
十二年正月、三好の一党が義昭を六条の邸に囲んだと聞こえたので、信長は急ぎ兵を出した。信長が馬にまたがるとき、馬に荷を載せる者たちが、荷の軽重に偏りがあると言って、争い合って喧嘩した。信長は馬から下り、ことごとく自ら持ち上げてこれを試して、皆軽重の差はない、急いで馳せよ、と言われたので、争いはたちまち止んだ。 信長が浅井備前守長政と二条の御所を築いたとき、わずかなことから始まって、信長勢と長政勢の間に闘争が起こり、信長勢五百六十人、長政勢三百五十人が死んだ。事が終わった後、柴田勝家、森可成が信長の前に出て、浅井の者どもがこれこれの狼藉に及びましたので、きっとお咎めを仰せ付けられるのがよいでしょう、と申した。信長は笑って、備前守とても、そのような狼藉はするまい、私が推量するに、箕作の城攻めの時、浅井はことのほか鈍かったのを、我が家の者どもが侮って何事も我儘に悪口をたたいたので、浅井方でも腹を立ててこのように振る舞ったのだろう、浅井は代々弓矢を執って誉れがある、今後、浅井に粗忽なことを言い掛けて、私を恨ませるな、と言われたので、柴田、森も言葉なく退出した。はたして信長の言うとおりであった。
解説

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