名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 叡山の断行と刀根山の読み
是れ國賊にあらずや、今にして剪除せずんば患を天下に貽さん、且つ彼其律を犯し、葷を茹ひ妾を蓄へ、誦呪を束閣すと聞けり。安んぞ、其王城を鎭するにあらんや、圍みて之を燒き遺類あらしむること勿れと云ふ。諸將則ち服す。明日、叡山を圍み中堂及び二十一社を燔き、僧徒婦女老少となく皆之を斬り、志賀郡を以て明智光秀に賜はり、坂本に城を築き之に居らしむ。 ○八月、信長、越前に攻入りし時、義景兵二萬を以て刀根山に陣す。信長の先鋒は、其の麓に陣せり。一日信長栖樓に上り、敵を見渡し、敵は今夜必ず引退くべし、先陣の者共怠るな、と度々使を遣りて下知せり。是を聞て殿は如何で斯くは仰せ候やらん、敵大軍にて山に據り、地の利を得て、且つ主戰なれば、何條引退くべきやと言あへり。夜に入りても、信長は猶栖樓に在りて、敵陣を睨みて目も放さずして居たりしが、丑の刻計りに、早や敵は引くぞと言ふ程こそあれ、螺吹立させ馬に乘り、先陣の大綾山の奴原が油斷したるに旗本の者共功名せよと言て、眞一文字に進まれたり。果して先陣は後れて、旗本にて勝利を得たり。是より信長常に怠る者を大綾山と言て、笑はれしとぞ。 ○信長、出陣する毎に、足半を太刀の鞘に付出る。刀根山の役、兼松又四郎正儀先登し、一番首を得て、實檢に入る。信長大に感稱し、且つ其跣足なるを見て付居たる所の足半を與へて曰く、我多年、汝の如き勇士を待つこと久し、今日初て其主を得たり。我本懷之に過ぎずとて喜ばれけり。
新字:是れ国賊にあらずや、今にして剪除せずんば患を天下に貽さん、且つ彼其律を犯し、葷を茹ひ妾を蓄へ、誦呪を束閣すと聞けり。安んぞ、其王城を鎮するにあらんや、囲みて之を焼き遺類あらしむること勿れと云ふ。諸将則ち服す。明日、叡山を囲み中堂及び二十一社を燔き、僧徒婦女老少となく皆之を斬り、志賀郡を以て明智光秀に賜はり、坂本に城を築き之に居らしむ。 ○八月、信長、越前に攻入りし時、義景兵二万を以て刀根山に陣す。信長の先鋒は、其の麓に陣せり。一日信長栖楼に上り、敵を見渡し、敵は今夜必ず引退くべし、先陣の者共怠るな、と度々使を遣りて下知せり。是を聞て殿は如何で斯くは仰せ候やらん、敵大軍にて山に拠り、地の利を得て、且つ主戦なれば、何条引退くべきやと言あへり。夜に入りても、信長は猶栖楼に在りて、敵陣を睨みて目も放さずして居たりしが、丑の刻計りに、早や敵は引くぞと言ふ程こそあれ、螺吹立させ馬に乗り、先陣の大綾山の奴原が油断したるに旗本の者共功名せよと言て、真一文字に進まれたり。果して先陣は後れて、旗本にて勝利を得たり。是より信長常に怠る者を大綾山と言て、笑はれしとぞ。 ○信長、出陣する毎に、足半を太刀の鞘に付出る。刀根山の役、兼松又四郎正儀先登し、一番首を得て、実検に入る。信長大に感称し、且つ其跣足なるを見て付居たる所の足半を与へて曰く、我多年、汝の如き勇士を待つこと久し、今日初て其主を得たり。我本懐之に過ぎずとて喜ばれけり。
書き下し
是れ國賊にあらずや、今にして剪除せずんば患を天下に貽さん、且つ彼其律を犯し、葷を茹ひ妾を蓄へ、誦呪を束閣すと聞けり。安んぞ、其王城を鎭するにあらんや、圍みて之を燒き遺類あらしむること勿れと云ふ。諸將則ち服す。明日、叡山を圍み中堂及び二十一社を燔き、僧徒婦女老少となく皆之を斬り、志賀郡を以て明智光秀に賜はり、坂本に城を築き之に居らしむ。 ○八月、信長、越前に攻入りし時、義景兵二萬を以て刀根山に陣す。信長の先鋒は、其の麓に陣せり。一日信長栖樓に上り、敵を見渡し、敵は今夜必ず引退くべし、先陣の者共怠るな、と度々使を遣りて下知せり。是を聞て殿は如何で斯くは仰せ候やらん、敵大軍にて山に據り、地の利を得て、且つ主戰なれば、何條引退くべきやと言あへり。夜に入りても、信長は猶栖樓に在りて、敵陣を睨みて目も放さずして居たりしが、丑の刻計りに、早や敵は引くぞと言ふ程こそあれ、螺吹立させ馬に乘り、先陣の大綾山の奴原が油斷したるに旗本の者共功名せよと言て、眞一文字に進まれたり。果して先陣は後れて、旗本にて勝利を得たり。是より信長常に怠る者を大綾山と言て、笑はれしとぞ。 ○信長、出陣する毎に、足半を太刀の鞘に付出る。刀根山の役、兼松又四郎正儀先登し、一番首を得て、實檢に入る。信長大に感稱し、且つ其跣足なるを見て付居たる所の足半を與へて曰く、我多年、汝の如き勇士を待つこと久し、今日初て其主を得たり。我本懷之に過ぎずとて喜ばれけり。
現代語訳
これは国賊ではないか。今のうちに剪除しなければ、患いを天下に残すだろう。しかもあの者たちはその戒律を犯し、葷を食べ妾を蓄え、読経をうち捨てていると聞く。どうしてそれが王城を鎮める者であろうか。囲んでこれを焼き、残党を残してはならない」と言った。諸将はそこで服した。翌日、叡山を囲み、中堂および二十一社を焼き、僧徒は婦女老少の別なく皆これを斬り、志賀郡を明智光秀に賜い、坂本に城を築いてこれに居らせた。 八月、信長が越前に攻め入ったとき、義景は兵二万で刀根山に陣した。信長の先鋒はその麓に陣した。ある日信長は櫓に上って敵を見渡し、「敵は今夜必ず引き退くだろう。先陣の者ども、怠るな」と、たびたび使いを遣わして指図した。これを聞いて、殿はどうしてこのように仰せられるのか、敵は大軍で山に拠り、地の利を得ており、しかも主戦であるから、どうして引き退くことがあろうかと言い合った。夜に入っても、信長はなお櫓にいて、敵陣を睨んで目も放さずにいたが、丑の刻ばかりに、はや敵は引くぞと言うやいなや、螺を吹き立てさせ、馬に乗り、「先陣の大綾山の奴らが油断しているから、旗本の者どもよ、功名せよ」と言って、真一文字に進まれた。はたして先陣は遅れて、旗本で勝利を得た。これより信長は、常に怠る者を大綾山と言って笑われたという。 信長は、出陣するたびに、足半を太刀の鞘に付けて出た。刀根山の役で、兼松又四郎正儀が先登して一番首を得て、実検に入れた。信長は大いに感称し、その裸足であるのを見て、付けていた足半を与えて言った。「私は多年、お前のような勇士を待つことが久しかった。今日初めてその人を得た。私の本懐はこれに過ぎない」と喜ばれた。
解説

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