名将言行録 / 『名将言行録』織田信長 評・織徳の信頼と苦衷
織德二家の交渉は、割合圓滿に終始した。それはお互ひ相手を認めてゐた爲であらう。が、然し、家康としては信長の意を受けて、長子信康を殺したが如き苦衷がある。
新字:織徳二家の交渉は、割合円満に終始した。それはお互ひ相手を認めてゐた為であらう。が、然し、家康としては信長の意を受けて、長子信康を殺したが如き苦衷がある。
書き下し
織德二家の交渉は、割合圓滿に終始した。それはお互ひ相手を認めてゐた爲であらう。が、然し、家康としては信長の意を受けて、長子信康を殺したが如き苦衷がある。
現代語訳
織徳二家の交渉は、割合円満に終始した。それはお互い相手を認めていたためであろう。が、しかし、家康としては信長の意を受けて、長子信康を殺したような苦衷がある。
解説
菊池寛は評で、信長と家康の関係は比較的円満に続いたと述べ、その理由を互いに相手を認め合っていたためと見ます。一方で、家康が信長の意を受けて長子の信康を死なせたような苦しみもあったと指摘します。信康事件の実情は史料により見方が分かれ、ここでは評者の一つの見方として読むのがよいでしょう。長続きする提携は、対等な敬意に支えられる一方、立場の強弱による犠牲も生みます。組織間の関係でも、見えにくい負担を引き受けている側がないか、振り返る契機になります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
織徳同盟家康信康苦衷相互承認菊池寛の評
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