名将言行録 / 『名将言行録』直江兼續 正則の推挙と閻魔への高札
○諸大名集會し、雜談の時、家康今此大阪城を小祿にて守り、西國の諸將攻登るべきことあらば、當津に於て、其大軍を押へ、關東へ告ぐべき者、中臣小身且つ陪臣の中に幾くあるべきや、各思ふ所を申さるべしと言はれければ、福島正則卒爾なることなれども、某の思ふ所は、上杉の老臣直江山城守、蒲生の老臣蒲生源左衞門兩人の外あるべからずと申ければ、家康聞て、余にも兩人ならんと思ふなりと言はれけり。 ○上杉の家臣三寶寺勝藏と曰ふ者、下人を成敗しけるが、其罪斬る程のことにてもなき故にや、下人の一族共大に怒り、彼者返し給はれと言ふ。兼續種々扱ひ、白銀二十枚與へ、夫にて勘忍し、跡を弔へと喩しけれども、用ひず。是非に返し給はれと言ふ。兼續死したる者、何にとて呼返さるべき、銀子を取て了簡せよと繰返し、喩しけれども承引せず。兼續止むことを得ず家臣森山舍人に命じ、高札一枚捧させ一筆書せて、自身玄關へ出て訴人に樣々に喩せども愈々聞入れざる故、兼續此上は是非に及ばず、何れにも呼返し取らすべし。只冥途へ呼びに遣はす者なし、大儀ながら彼者の兄と、伯父と甥と三人閻魔の廳へ參り、彼者を申受け來るべしとて、彼三人を捕へ往來橋に成敗し、其高札を建たり。其文に曰く。未得御意候得共、一筆令啓上候、三寶寺勝藏家來何某、不慮の儀に付相果候て、親類共歎き候て、呼返し呉候樣に申候に付、則三人の者迎に遣はし候、死人御返し可被下候。恐々謹言。慶長二年二月七日直江山城守兼續判。閻魔王樣宜敷獄卒御披露。
新字:○諸大名集会し、雑談の時、家康今此大阪城を小禄にて守り、西国の諸将攻登るべきことあらば、当津に於て、其大軍を押へ、関東へ告ぐべき者、中臣小身且つ陪臣の中に幾くあるべきや、各思ふ所を申さるべしと言はれければ、福島正則卒爾なることなれども、某の思ふ所は、上杉の老臣直江山城守、蒲生の老臣蒲生源左衛門両人の外あるべからずと申ければ、家康聞て、余にも両人ならんと思ふなりと言はれけり。 ○上杉の家臣三宝寺勝蔵と曰ふ者、下人を成敗しけるが、其罪斬る程のことにてもなき故にや、下人の一族共大に怒り、彼者返し給はれと言ふ。兼続種々扱ひ、白銀二十枚与へ、夫にて勘忍し、跡を弔へと喩しけれども、用ひず。是非に返し給はれと言ふ。兼続死したる者、何にとて呼返さるべき、銀子を取て了簡せよと繰返し、喩しけれども承引せず。兼続止むことを得ず家臣森山舎人に命じ、高札一枚捧させ一筆書せて、自身玄関へ出て訴人に様々に喩せども愈々聞入れざる故、兼続此上は是非に及ばず、何れにも呼返し取らすべし。只冥途へ呼びに遣はす者なし、大儀ながら彼者の兄と、伯父と甥と三人閻魔の庁へ参り、彼者を申受け来るべしとて、彼三人を捕へ往来橋に成敗し、其高札を建たり。其文に曰く。未得御意候得共、一筆令啓上候、三宝寺勝蔵家来何某、不慮の儀に付相果候て、親類共嘆き候て、呼返し呉候様に申候に付、則三人の者迎に遣はし候、死人御返し可被下候。恐々謹言。慶長二年二月七日直江山城守兼続判。閻魔王様宜敷獄卒御披露。
書き下し
○諸大名集會し、雜談の時、家康今此大阪城を小祿にて守り、西國の諸將攻登るべきことあらば、當津に於て、其大軍を押へ、關東へ告ぐべき者、中臣小身且つ陪臣の中に幾くあるべきや、各思ふ所を申さるべしと言はれければ、福島正則卒爾なることなれども、某の思ふ所は、上杉の老臣直江山城守、蒲生の老臣蒲生源左衞門兩人の外あるべからずと申ければ、家康聞て、余にも兩人ならんと思ふなりと言はれけり。 ○上杉の家臣三寶寺勝藏と曰ふ者、下人を成敗しけるが、其罪斬る程のことにてもなき故にや、下人の一族共大に怒り、彼者返し給はれと言ふ。兼續種々扱ひ、白銀二十枚與へ、夫にて勘忍し、跡を弔へと喩しけれども、用ひず。是非に返し給はれと言ふ。兼續死したる者、何にとて呼返さるべき、銀子を取て了簡せよと繰返し、喩しけれども承引せず。兼續止むことを得ず家臣森山舍人に命じ、高札一枚捧させ一筆書せて、自身玄關へ出て訴人に樣々に喩せども愈々聞入れざる故、兼續此上は是非に及ばず、何れにも呼返し取らすべし。只冥途へ呼びに遣はす者なし、大儀ながら彼者の兄と、伯父と甥と三人閻魔の廳へ參り、彼者を申受け來るべしとて、彼三人を捕へ往來橋に成敗し、其高札を建たり。其文に曰く。未得御意候得共、一筆令啓上候、三寶寺勝藏家來何某、不慮の儀に付相果候て、親類共歎き候て、呼返し呉候樣に申候に付、則三人の者迎に遣はし候、死人御返し可被下候。恐々謹言。慶長二年二月七日直江山城守兼續判。閻魔王樣宜敷獄卒御披露。
現代語訳
諸大名が集会して雑談のとき、家康が、今この大坂城を小禄で守り、西国の諸将が攻め上ってくるようなことがあれば、この津でその大軍を押さえ、関東に知らせることのできる者は、重臣で小身、しかも陪臣の者の中にどれほどいるだろうか。各々思うところを申されよ、と言われたところ、福島正則が、不躾ではありますが、私の思うところでは、上杉の老臣直江山城守、蒲生の老臣蒲生源左衛門の両人のほかにはいないでしょう、と申したので、家康は聞いて、私もこの両人だろうと思う、と言われた。 上杉の家臣に三宝寺勝蔵という者がいて、下人を成敗したが、その罪は斬るほどのことでもなかったためか、下人の一族は大いに怒り、あの者を返してくださいと言った。兼続は様々に取りなし、白銀二十枚を与え、それで堪忍して跡を弔えと諭したが、用いない。ぜひ返してくださいと言う。兼続は、死んだ者をどうして呼び返せようか、銀子を取って了見せよと繰り返し諭したが承知しない。兼続はやむを得ず家臣の森山舎人に命じ、高札を一枚捧げさせて一筆を書かせ、自ら玄関に出て訴人に様々に諭したがいよいよ聞き入れないので、兼続は、この上は是非に及ばない、いずれにしても呼び返して取らせよう。ただ冥途へ呼びに遣わす者がいない、大儀ながらあの者の兄と、伯父と甥と三人、閻魔の庁へ参り、あの者を申し受けてまいれと言って、その三人を捕らえて往来橋で成敗し、その高札を建てた。その文に言う。「いまだお目にかかっておりませんが、一筆啓上いたします。三宝寺勝蔵の家来何某が、不慮のことにより亡くなり、親類どもが嘆いて、呼び返してくださるようにと申しますので、すなわち三人の者を迎えに遣わしました。死人をお返しくださいますよう。恐々謹言。慶長二年二月七日、直江山城守兼続判。閻魔王様、よろしく獄卒へご披露ください」。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉景勝 浪人を止めず、先陣を替える○大阪陣の時、世間の風聞に、浪人程の者は、皆大阪に集る由聞えければ、江戸の老臣所々に、新關を建て、大阪に行く者を留むべきこと如何あらんと評議す。家康聞て、大阪に行く者を禁ずる理なし、箇様のことは今の世には上杉景勝、予が思惟と一致ならんとて、本多正信を遣はして談合せしむるに、景勝聞て、一揆同然の集り者は、數寡なければ、一同して固まることあり、數多ければ、內輪崩れて一和せず、其內有名武功の將の歸服を御分別ありて、集まり勢は禁ずるに及ぶまじと申にぞ、新關は建てずとなり。 ○大阪冬役、景勝、直江兼續を呼び、先陣は誰ぞと問ふ。兼續先陣は守田上總介順易、二陣は隅田大炊介長則に定め候と申す。景勝聞て、否々隅田を先陣にして、安田を二陣に繰り替よ、二の目功者にてなくば軍の勝はなしと言はる。順易先陣を二陣に繰り替られしを口惜きことに思ひ、齒噛をなし、長則も順易に越て功名せんと勇みける故、兩陣共勇氣十倍しけり。是軍士を激勵するの策なり。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 敵将への敬意と遠因井伊本多之を聞き、大に驚き、正則の申さる、所、理至極せり、去らば井奈が手に屬せし騎馬の士、首切て參らせん、伊奈と中直りし賜はらんこと、公私の幸、何事か之に過んやと言ければ、正則、家子郞等に疎まれて、重ねて敢果々々敷軍せんこと叶ふまじ、今は德川殿にも、正則よしとも思召されまじ、此後御門下に伺候せんこと、詮なきとて引籠る。家康此由を聞て、正則が申條其理なきにあらず、伊奈が計らひ不當なりと怒られしかば、今成腹切て死す。井伊直政、頓て其首持たせて正則が陣に行向ふ。正則之を見て、井伊殿の御力に依て、正則が耻雪ぎて候と喜びけり。 これ、正則が後に封を失ひし遠因となる。 ○此役、石田三成擒となる、諸將爭ひ之を折辱す。三成曰く、凡そ戰死を好むは匹夫のことなり、將たらん者は、命を危きに免れ、重ねて戰を遂ぐるを本意とす。我全く臆するにあらず、如何にもして大阪に至り、素懷を遂んことを欲すると雖も、運盡きて囚に及べり。各は將師の法は知られずやと怒りしに、正則聞て、至極の理に候、武將たらん者は、誰も斯くこそ心得べきことなれ、豈耻辱とせんやと言て、三成が心を慰めける。人皆勇將哉、と言て感稱せり。 ○此役終て後、正則、德川殿には、箇樣に秀賴公を御立置かれし上は、別儀は之有間敷、石田が關ヶ原の一戰、若し勝利せしならば、却て秀賴公をば、三日とは置申間敷と言はれける。尤ものことゝ人々申あへり。