名将言行録 / 『名将言行録』直江兼續 惺窩を三度訪ねる
○兼續、藤原肅(註:惺窩と號す)を見んと欲し、三度まで至りしが、肅人をして不在なりと言はしめて逢はず。最後に肅此度來らば我逢はんと言ふ。次日又た至る。時に肅實に不在なり、兼續悵然として、余先生を見るを願へども、得べからず、今日既に會津に歸らんとす。終に邂逅に由なきは、誠に天なりと言て去る。頃くありて、肅歸り之を聞き、猶未だ遠からずと言ひしに依り、即ち馳せて大津の驛に至り、兼續に逢ふ。兼續大に喜び、厚く禮敬を致し、余兼々有道に就んと欲し、前日屢々推參せしが、折惡敷御不在にて拜謁を得ず、然るに今日圖らず、玉趾を勞させられ候段、忝しと謝し、偖倉猝の間なれば、他は問ふに遑あらず、只一事を正し給はれと言ふ。夫繼絶扶傾今の時に當りて行ふべきや否やと問ければ、肅聞て、事の急なるは、却て破れの基に候と答へしとぞ。 ○會津の役、家康奧州の諸浪人は夷共にて、心の猛きこと馭ん樣なし、兼續智勇ありて、之を駕御せし故、譜第同前に成れりと言はれけり。
新字:○兼続、藤原粛(註:惺窩と号す)を見んと欲し、三度まで至りしが、粛人をして不在なりと言はしめて逢はず。最後に粛此度来らば我逢はんと言ふ。次日又た至る。時に粛実に不在なり、兼続悵然として、余先生を見るを願へども、得べからず、今日既に会津に帰らんとす。終に邂逅に由なきは、誠に天なりと言て去る。頃くありて、粛帰り之を聞き、猶未だ遠からずと言ひしに依り、即ち馳せて大津の駅に至り、兼続に逢ふ。兼続大に喜び、厚く礼敬を致し、余兼々有道に就んと欲し、前日屡々推参せしが、折悪敷御不在にて拝謁を得ず、然るに今日図らず、玉趾を労させられ候段、忝しと謝し、偖倉猝の間なれば、他は問ふに遑あらず、只一事を正し給はれと言ふ。夫継絶扶傾今の時に当りて行ふべきや否やと問ければ、粛聞て、事の急なるは、却て破れの基に候と答へしとぞ。 ○会津の役、家康奥州の諸浪人は夷共にて、心の猛きこと馭ん様なし、兼続智勇ありて、之を駕御せし故、譜第同前に成れりと言はれけり。
書き下し
○兼續、藤原肅(註:惺窩と號す)を見んと欲し、三度まで至りしが、肅人をして不在なりと言はしめて逢はず。最後に肅此度來らば我逢はんと言ふ。次日又た至る。時に肅實に不在なり、兼續悵然として、余先生を見るを願へども、得べからず、今日既に會津に歸らんとす。終に邂逅に由なきは、誠に天なりと言て去る。頃くありて、肅歸り之を聞き、猶未だ遠からずと言ひしに依り、即ち馳せて大津の驛に至り、兼續に逢ふ。兼續大に喜び、厚く禮敬を致し、余兼々有道に就んと欲し、前日屢々推參せしが、折惡敷御不在にて拜謁を得ず、然るに今日圖らず、玉趾を勞させられ候段、忝しと謝し、偖倉猝の間なれば、他は問ふに遑あらず、只一事を正し給はれと言ふ。夫繼絶扶傾今の時に當りて行ふべきや否やと問ければ、肅聞て、事の急なるは、却て破れの基に候と答へしとぞ。 ○會津の役、家康奧州の諸浪人は夷共にて、心の猛きこと馭ん樣なし、兼續智勇ありて、之を駕御せし故、譜第同前に成れりと言はれけり。
現代語訳
兼続は藤原粛(注:惺窩と号す)に会いたいと思い、三度まで訪れたが、粛は人に不在と言わせて会わなかった。最後に粛は、このたび来たら会おうと言った。翌日また訪れた。そのとき粛は本当に不在だった。兼続は悵然として、私は先生にお会いしたいと願ったが叶わなかった、今日はもう会津に帰ろうと思う。ついに出会う手立てがないのは、まことに天命だと言って去った。しばらくして粛が帰り、これを聞き、まだ遠くへは行くまいと言ったので、すぐに馳せて大津の宿場に至り、兼続に会った。兼続は大いに喜び、手厚く礼敬を尽くし、私はかねて道ある人につきたいと思い、先日たびたび参上したが、折悪しく御不在で拝謁を得ず、ところが今日思いがけず御足労をおかけしたこと、かたじけない、と謝し、さて慌ただしい間なので、他のことを問う暇はない、ただ一事を正してほしい、と言う。絶えたるを継ぎ傾けるを扶けることは、今の時に当たって行うべきでしょうかどうか、と問うたところ、粛は聞いて、事の急なのは、かえって破れのもとです、と答えたという。 会津の役のあと、家康は、奥州の諸浪人は夷のような者どもで、心の猛きこと馭しがたいが、兼続は智勇があってこれを御したので、譜代同然になった、と言われた。
解説

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