名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 浪人を止めず、先陣を替える
○大阪陣の時、世間の風聞に、浪人程の者は、皆大阪に集る由聞えければ、江戸の老臣所々に、新關を建て、大阪に行く者を留むべきこと如何あらんと評議す。家康聞て、大阪に行く者を禁ずる理なし、箇様のことは今の世には上杉景勝、予が思惟と一致ならんとて、本多正信を遣はして談合せしむるに、景勝聞て、一揆同然の集り者は、數寡なければ、一同して固まることあり、數多ければ、內輪崩れて一和せず、其內有名武功の將の歸服を御分別ありて、集まり勢は禁ずるに及ぶまじと申にぞ、新關は建てずとなり。 ○大阪冬役、景勝、直江兼續を呼び、先陣は誰ぞと問ふ。兼續先陣は守田上總介順易、二陣は隅田大炊介長則に定め候と申す。景勝聞て、否々隅田を先陣にして、安田を二陣に繰り替よ、二の目功者にてなくば軍の勝はなしと言はる。順易先陣を二陣に繰り替られしを口惜きことに思ひ、齒噛をなし、長則も順易に越て功名せんと勇みける故、兩陣共勇氣十倍しけり。是軍士を激勵するの策なり。
新字:○大阪陣の時、世間の風聞に、浪人程の者は、皆大阪に集る由聞えければ、江戸の老臣所々に、新関を建て、大阪に行く者を留むべきこと如何あらんと評議す。家康聞て、大阪に行く者を禁ずる理なし、箇様のことは今の世には上杉景勝、予が思惟と一致ならんとて、本多正信を遣はして談合せしむるに、景勝聞て、一揆同然の集り者は、数寡なければ、一同して固まることあり、数多ければ、内輪崩れて一和せず、其内有名武功の将の帰服を御分別ありて、集まり勢は禁ずるに及ぶまじと申にぞ、新関は建てずとなり。 ○大阪冬役、景勝、直江兼続を呼び、先陣は誰ぞと問ふ。兼続先陣は守田上総介順易、二陣は隅田大炊介長則に定め候と申す。景勝聞て、否々隅田を先陣にして、安田を二陣に繰り替よ、二の目功者にてなくば軍の勝はなしと言はる。順易先陣を二陣に繰り替られしを口惜きことに思ひ、歯噛をなし、長則も順易に越て功名せんと勇みける故、両陣共勇気十倍しけり。是軍士を激励するの策なり。
書き下し
○大阪陣の時、世間の風聞に、浪人程の者は、皆大阪に集る由聞えければ、江戸の老臣所々に、新關を建て、大阪に行く者を留むべきこと如何あらんと評議す。家康聞て、大阪に行く者を禁ずる理なし、箇様のことは今の世には上杉景勝、予が思惟と一致ならんとて、本多正信を遣はして談合せしむるに、景勝聞て、一揆同然の集り者は、數寡なければ、一同して固まることあり、數多ければ、內輪崩れて一和せず、其內有名武功の將の歸服を御分別ありて、集まり勢は禁ずるに及ぶまじと申にぞ、新關は建てずとなり。 ○大阪冬役、景勝、直江兼續を呼び、先陣は誰ぞと問ふ。兼續先陣は守田上總介順易、二陣は隅田大炊介長則に定め候と申す。景勝聞て、否々隅田を先陣にして、安田を二陣に繰り替よ、二の目功者にてなくば軍の勝はなしと言はる。順易先陣を二陣に繰り替られしを口惜きことに思ひ、齒噛をなし、長則も順易に越て功名せんと勇みける故、兩陣共勇氣十倍しけり。是軍士を激勵するの策なり。
現代語訳
○大坂の陣の時、世間の風聞に、浪人ほどの者は皆大坂に集まるとのことなので、江戸の老臣が所々に新しい関所を建て、大坂へ行く者を留めることはどうだろうかと評議した。家康は聞いて、大坂へ行く者を禁ずる道理はない、このようなことは、今の世では上杉景勝が私の考えと一致するだろうと言って、本多正信を遣わして相談させたところ、景勝は聞いて言った。一揆同然の集まり者は、数が少なければ、一同してまとまることがあるが、数が多ければ、内輪が崩れて一和しない。そのなかの有名な武功の将の帰服を御分別なさって、集まる勢は禁ずるには及ぶまいと申したので、新関は建てないことになった。 ○大坂冬の役で、景勝は直江兼続を呼び、先陣は誰かと尋ねた。兼続は、先陣は安田上総介順易、二陣は隅田大炊介長則と定めていますと言った。景勝は聞いて言った。いやいや、隅田を先陣にして、安田を二陣に繰り替えよ、二番目が功者でなければ、軍の勝ちはないのだと。順易は先陣を二陣に繰り替えられたことを悔しく思い、歯噛みをし、長則も順易を越えて功名しようと勇んだので、両陣ともに勇気が十倍した。これは軍士を激励する策である。
解説

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