名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 大坂の使者を追い返す
○此時、大阪より秀吉恩顧の諸大名に使ありける、中にも、正則へは別けての使、林伊兵衞を下さる。伊兵衞關東に着し、正則□兵部少輔を以て、書を正則に渡す。正則之を承はり、定めて今度のこと御頼み遊ばされ度とのことなるべし、我等こと爰許に罷在り候ては心に叶はず御返事申べき樣もなければ、御書見するに及ばず、伊兵衞遠方の所罷趣大儀に候へ共、逢て詞もあらざれば對面に及ばず、早々罷上り申上ぐべし、三年遲し、三年早し、詮なき思召立ち是非もなし、此上は早や返らぬことに候聞、太閤御遺言の如く、自然のことあらば、大阪の城枕と仰置れし通、御城にて御果て候より外なし、又家康、野合の一戰は上手なれども、城攻のことは左程にあらず、是一つ。又太閤御用意の御城無雙の要害是一つ。左すれば、城を御頼み成さるゝ計りなり、此由宜しく申上ぐべしとて、伊兵衞を返しけり。 ○此時、正則は江戸に在り、子備後守正勝は安藝に留守す。正則老臣福島丹波、尾關石見方に使を以て、我太閤の御厚恩を受けしこと、世に隱れなし、汝等兩人覺悟に依て、備後守が武將の譽あるべくは、吾を捨て殺せ、是本望なり、必ず□を残さゞれと、自筆の書を贈られぬ。
新字:○此時、大阪より秀吉恩顧の諸大名に使ありける、中にも、正則へは別けての使、林伊兵衛を下さる。伊兵衛関東に着し、正則□兵部少輔を以て、書を正則に渡す。正則之を承はり、定めて今度のこと御頼み遊ばされ度とのことなるべし、我等こと爰許に罷在り候ては心に叶はず御返事申べき様もなければ、御書見するに及ばず、伊兵衛遠方の所罷趣大儀に候へ共、逢て詞もあらざれば対面に及ばず、早々罷上り申上ぐべし、三年遅し、三年早し、詮なき思召立ち是非もなし、此上は早や返らぬことに候聞、太閤御遺言の如く、自然のことあらば、大阪の城枕と仰置れし通、御城にて御果て候より外なし、又家康、野合の一戦は上手なれども、城攻のことは左程にあらず、是一つ。又太閤御用意の御城無双の要害是一つ。左すれば、城を御頼み成さるゝ計りなり、此由宜しく申上ぐべしとて、伊兵衛を返しけり。 ○此時、正則は江戸に在り、子備後守正勝は安芸に留守す。正則老臣福島丹波、尾関石見方に使を以て、我太閤の御厚恩を受けしこと、世に隠れなし、汝等両人覚悟に依て、備後守が武将の誉あるべくは、吾を捨て殺せ、是本望なり、必ず□を残さゞれと、自筆の書を贈られぬ。
書き下し
○此時、大阪より秀吉恩顧の諸大名に使ありける、中にも、正則へは別けての使、林伊兵衞を下さる。伊兵衞關東に着し、正則□兵部少輔を以て、書を正則に渡す。正則之を承はり、定めて今度のこと御頼み遊ばされ度とのことなるべし、我等こと爰許に罷在り候ては心に叶はず御返事申べき樣もなければ、御書見するに及ばず、伊兵衞遠方の所罷趣大儀に候へ共、逢て詞もあらざれば對面に及ばず、早々罷上り申上ぐべし、三年遲し、三年早し、詮なき思召立ち是非もなし、此上は早や返らぬことに候聞、太閤御遺言の如く、自然のことあらば、大阪の城枕と仰置れし通、御城にて御果て候より外なし、又家康、野合の一戰は上手なれども、城攻のことは左程にあらず、是一つ。又太閤御用意の御城無雙の要害是一つ。左すれば、城を御頼み成さるゝ計りなり、此由宜しく申上ぐべしとて、伊兵衞を返しけり。 ○此時、正則は江戸に在り、子備後守正勝は安藝に留守す。正則老臣福島丹波、尾關石見方に使を以て、我太閤の御厚恩を受けしこと、世に隱れなし、汝等兩人覺悟に依て、備後守が武將の譽あるべくは、吾を捨て殺せ、是本望なり、必ず□を残さゞれと、自筆の書を贈られぬ。
現代語訳
このとき、大坂から秀吉恩顧の諸大名へ使いがあり、なかでも正則へは特別の使いとして林伊兵衛を下された。伊兵衛は関東に着き、正則の□兵部少輔を通して書を正則に渡した。正則はこれを聞き、きっと今度のことをお頼みなされたいというのであろう。我らはここにいては心に任せず、御返事を申すべきようもないので、御書は見るに及ばない。伊兵衛が遠方から参ったのは大儀であるが、会って言葉もないので対面には及ばない。早々に帰って申し上げよ。三年遅い、三年早い、詮のない思し召し立てで是非もない。この上はもう返らぬことである。太閤のご遺言のとおり、もしものことがあれば、大坂の城を枕にと仰せ置かれたとおり、お城でお果てになるほかない。また家康は、野合の一戦は上手だが、城攻めはそれほどでもない。これが一つ。また太閤がご用意の城は無双の要害。これが一つ。そうであれば、城を頼みとなさるばかりである。この由よろしく申し上げよ、と言って伊兵衛を返した。 このとき正則は江戸におり、子の備後守正勝は安芸に留守していた。正則は老臣の福島丹波、尾関石見のもとへ使いを遣わし、私が太閤の厚い御恩を受けたことは、世に隠れもない。おまえたち両人の覚悟によって、備後守に武将の誉れがあるなら、私を捨てて殺せ。これが本望である。必ず□を残すな、という自筆の書を贈った。
解説

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名将言行録・『名将言行録』福島正則 病を装うと疑われた大坂留守○十六年三月、秀賴、家康と對顏の時、正則國より上るとて、八幡より煩ひ出し、半井忠菴藥にて存命覺束なしと馳廻し、廣島より、多く家臣を呼寄せたり。正則兵一萬餘。秀賴の兵八千にて太阪に留守せり。世人福島は何つも箇樣の時は、作病すと言て、嘲弄せり。家康聞かれ福島今度の病は二條への供を遁るべき爲めにあらず、萬一予秀賴を殺すか擒にするに於ては、加藤清正、淺野幸長二人は、秀賴の爲めに戰死して以て名を末代に殘すべし、又大阪に秀賴の母公あり、之を人手に掛るも口惜と、幸ひ正則は秀賴の縁ある者なれば、母公を手に掛け城を火にし、腹搔切て失せなんこと、何の疑あるべからず。三人申合はせ、兩人は秀賴の供し、一人は病と稱して大阪に留まりたりと覺ゆ、箇樣のこと淺く思ふべきにあらず、太閤能く人を見知り、取立られたるも、尤もなりと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 評・正則の不覚と家臣の見事さ○大閤取立ての大名中、剛強を以て聞えた武將である。よく士心を得て、その旗下に剛強の士を多く集めたことを見ても、攻城野戰の大將としては、申分ないが、しかし、うまく德川のために操られて、使ふだけは使はれて、德川の天下が安定すると、手がるに改易されたのでは、あまりにダラシがない。蒲生にしろ、兩加藤にしろ、第二世になつて廢絶したのだが、福島だけは當人の在世中に、取り潰されたのだから、正則自身の不覺と云ふ外はない。當時、大阪城を見殺しにしたと云ふ非難も相當受けたらしい。當時、正則が乾坤一擲の氣持で、大阪へ入城したら、家康も相當手古ずつたに相違なく、形勢の推移に依つては、再び天下の大變となつて、豐臣家が再興されたかも分らない。また、たとひ敗れたとして、正則の武名は眞田幸村に數倍して、後世に傳はつただらう。大閤は、あまりにその家臣を大名に取り立て過ぎた。大名に取り立て、封土やそれ等を多く持たすと、やはり一身一家のことを考へ出すものだと云ふ批判があるのも、正則などの場合を云ふのであらう。正則が、大阪城を見殺しにしたゝめ、暗に天下の非難を蒙むると、德川の方はそれに乘じて取り潰しにかゝるのだから、敵はない。改易の時の家臣の態度が、見事であつた事は、正則として唯一の慰めであつたに違ひない。 家臣の中、可兒吉則、福島治金、大崎長行、吉村宣光などは、いづれも當時天下に聞えた侍大將であつた。その中可兒吉長だけを、載せて置く。
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