名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 弱みを見せて誘い出す
此度五百騎の將に成り、殊に景勝小軍なり、長國方へ取掛らば、館より後詰を乞ひ、館へ取掛らば長國後詰して景勝を打取べしと分別して、館を離るべき長國ならんと言て、其後館へ働きても敵に少しも權あらば、早々春日山へ引入り、又敵春日山へ働く時は、矢一つも射出すことならざる樣に、弱みを見せし故に、案の如く長國五百騎の人數を率ゐて、館より十七八町西の傍ら、高見と云ふ所へ打て出で、堅固に陣を構へり。此方は彌々其威を恐れ、顔出しもならざる樣に爲しゝ故、長國一入此方を侮り、作毛を刈り、或は放火抔致しけれども、一圓に取合はず。明れば七年正月晦日、長國日待をし、二月朔日の旭を拜すべしとて、長陣に諸人草臥申べき間、今夜は心の儘に遊び候へと申付しは、彌々此方を侮りたる樣子なり。此儀隱なく透波ども歸り來て告ぐ。景勝聞て、天の與ふる所なりと喜びて、其夜大場海道を除き、左手に付鍬取山の谷合を押し、小田の明神へ取付き、高見より七八町此方なる五智の如來堂まで押寄せ、是に隱れ居て手合をし、敵の虚實を計り、旗本は兵を勝て七百人を二手に分け、足輕を左右に立、鳥銃を放ち掛くると同時に、鬨を作り、攻寄せては、火を付け、引揚ては又鬨を作り、火矢を射て陣屋を焼き、偖又地下人に申付て、如來堂より味方續きの所、方々に篝を焼き並べ、數千の備の如く相見する。長國の者舞謠遊宴し、油斷の折節なれば、周章騷て防ぎ戰ふこと思ひも寄らず。長國は休みて居たりしが、浴衣掛にて出合ひ、下知をすれども、中々備を立ることならず。去れども流石の長國なれば、馬に打乘り、只一騎敵味方の間を乘割り、館の方へ引退く。家來共馳付五六十人にて取包み、八幡の馬場へ掛りて行く所を、荻田主馬投突きに突く。長國脇腹へ突立しが一向に取合はずして引退く。景勝高見の敵を追散らし、八幡の馬場を指して、館まで追討、首五百八十餘打取り、凱歌を取り行ひ、同日辰の刻凱旋す。
新字:此度五百騎の将に成り、殊に景勝小軍なり、長国方へ取掛らば、館より後詰を乞ひ、館へ取掛らば長国後詰して景勝を打取べしと分別して、館を離るべき長国ならんと言て、其後館へ働きても敵に少しも権あらば、早々春日山へ引入り、又敵春日山へ働く時は、矢一つも射出すことならざる様に、弱みを見せし故に、案の如く長国五百騎の人数を率ゐて、館より十七八町西の傍ら、高見と云ふ所へ打て出で、堅固に陣を構へり。此方は弥々其威を恐れ、顔出しもならざる様に為しゝ故、長国一入此方を侮り、作毛を刈り、或は放火抔致しけれども、一円に取合はず。明れば七年正月晦日、長国日待をし、二月朔日の旭を拝すべしとて、長陣に諸人草臥申べき間、今夜は心の儘に遊び候へと申付しは、弥々此方を侮りたる様子なり。此儀隠なく透波ども帰り来て告ぐ。景勝聞て、天の与ふる所なりと喜びて、其夜大場海道を除き、左手に付鍬取山の谷合を押し、小田の明神へ取付き、高見より七八町此方なる五智の如来堂まで押寄せ、是に隠れ居て手合をし、敵の虚実を計り、旗本は兵を勝て七百人を二手に分け、足軽を左右に立、鳥銃を放ち掛くると同時に、鬨を作り、攻寄せては、火を付け、引揚ては又鬨を作り、火矢を射て陣屋を焼き、偖又地下人に申付て、如来堂より味方続きの所、方々に篝を焼き並べ、数千の備の如く相見する。長国の者舞謡遊宴し、油断の折節なれば、周章騷て防ぎ戦ふこと思ひも寄らず。長国は休みて居たりしが、浴衣掛にて出合ひ、下知をすれども、中々備を立ることならず。去れども流石の長国なれば、馬に打乗り、只一騎敵味方の間を乗割り、館の方へ引退く。家来共馳付五六十人にて取包み、八幡の馬場へ掛りて行く所を、荻田主馬投突きに突く。長国脇腹へ突立しが一向に取合はずして引退く。景勝高見の敵を追散らし、八幡の馬場を指して、館まで追討、首五百八十余打取り、凱歌を取り行ひ、同日辰の刻凱旋す。
書き下し
此度五百騎の將に成り、殊に景勝小軍なり、長國方へ取掛らば、館より後詰を乞ひ、館へ取掛らば長國後詰して景勝を打取べしと分別して、館を離るべき長國ならんと言て、其後館へ働きても敵に少しも權あらば、早々春日山へ引入り、又敵春日山へ働く時は、矢一つも射出すことならざる樣に、弱みを見せし故に、案の如く長國五百騎の人數を率ゐて、館より十七八町西の傍ら、高見と云ふ所へ打て出で、堅固に陣を構へり。此方は彌々其威を恐れ、顔出しもならざる樣に爲しゝ故、長國一入此方を侮り、作毛を刈り、或は放火抔致しけれども、一圓に取合はず。明れば七年正月晦日、長國日待をし、二月朔日の旭を拜すべしとて、長陣に諸人草臥申べき間、今夜は心の儘に遊び候へと申付しは、彌々此方を侮りたる樣子なり。此儀隱なく透波ども歸り來て告ぐ。景勝聞て、天の與ふる所なりと喜びて、其夜大場海道を除き、左手に付鍬取山の谷合を押し、小田の明神へ取付き、高見より七八町此方なる五智の如來堂まで押寄せ、是に隱れ居て手合をし、敵の虚實を計り、旗本は兵を勝て七百人を二手に分け、足輕を左右に立、鳥銃を放ち掛くると同時に、鬨を作り、攻寄せては、火を付け、引揚ては又鬨を作り、火矢を射て陣屋を焼き、偖又地下人に申付て、如來堂より味方續きの所、方々に篝を焼き並べ、數千の備の如く相見する。長國の者舞謠遊宴し、油斷の折節なれば、周章騷て防ぎ戰ふこと思ひも寄らず。長國は休みて居たりしが、浴衣掛にて出合ひ、下知をすれども、中々備を立ることならず。去れども流石の長國なれば、馬に打乘り、只一騎敵味方の間を乘割り、館の方へ引退く。家來共馳付五六十人にて取包み、八幡の馬場へ掛りて行く所を、荻田主馬投突きに突く。長國脇腹へ突立しが一向に取合はずして引退く。景勝高見の敵を追散らし、八幡の馬場を指して、館まで追討、首五百八十餘打取り、凱歌を取り行ひ、同日辰の刻凱旋す。
現代語訳
今度は五百騎の将になっており、ことに景勝は小勢である。長国の方へ取りかかれば、館から後詰めを乞い、館へ取りかかれば長国が後詰めして景勝を討ち取るべきだと考えて、館を離れるに違いないと言い、その後館へ働きかけても敵に少しでも勢いがあれば、早々に春日山へ引き入れ、また敵が春日山へ働くときは、矢一つも射出さないように、弱みを見せたので、思ったとおり、長国は五百騎の人数を率いて、館から十七、八町西の傍ら、高見という所へ出て、堅固に陣を構えた。こちらはいよいよその威を恐れ、顔出しもできないようにしたので、長国はいっそうこちらを侮り、作物を刈り、あるいは放火なども致したけれども、一切取り合わなかった。明けて七年正月晦日、長国は日待ちをし、二月朔日の朝日を拝もうと、長陣に諸人が疲れているだろうから、今夜は心のままに遊べと申し付けたのは、いよいよこちらを侮った様子である。このことは隠れなく、透波どもが帰って来て告げた。景勝は聞いて、天の与えるところであると喜び、その夜、大場街道を避け、左手の付鍬取山の谷合を押して、小田の明神へ取り付き、高見から七、八町こちらの五智如来堂まで押し寄せ、ここに隠れて手合わせをし、敵の虚実を計った。旗本は兵を選んで七百人を二手に分け、足軽を左右に立て、鉄砲を撃ちかけると同時に、鬨の声を作り、攻め寄せては火を付け、引き揚げてはまた鬨を作り、火矢を射て陣屋を焼いた。さらに、地元の人々に申し付けて、如来堂から味方の続く所、方々に篝火を焚き並べ、数千の備えのように見せた。長国の者は舞い謡い遊んで油断していたときなので、慌て騒いで防ぎ戦うことは思いもよらなかった。長国は休んでいたが、浴衣掛けで出合い、指図をするけれども、なかなか備えを立てることができない。それでもさすがに長国であるから、馬に乗り、ただ一騎で敵味方の間を乗り割って、館の方へ引き退いた。家来どもが駆けつけ五、六十人で取り囲み、八幡の馬場へかかって行くところを、荻田主馬が投げ突きに突いた。長国は脇腹へ突き立てられたが、一向に取り合わずに引き退いた。景勝は高見の敵を追い散らし、八幡の馬場を指して館まで追討ち、首を五百八十余り討ち取り、勝鬨を行い、同じ日の辰の刻に凱旋した。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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