名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 敵将の弱みを問う
○天正六年輝虎卒しければ、景勝、三郎景虎と矛盾起る。厩橋の城主北城丹後守長國、景虎に與力し、度々春日山近邊に働く。景勝、長國さへ討取れば景虎は如何にもなるべしと思ひ、老功の者に、先づ長國の人となりを問ふ。皆曰く、士五十騎、或は、二百騎までの人數をば能く下知して引廻はし、敵の壘合を見積り一戰し、自身鎗を取て眞先に進み戰ふ無類の若者にて候へ共、第一の瑾には慢心ありて高ぶり、人を見下し候間、不慮の誤りあるべきかと存候、謙信公御意にも無類の健氣なる者なり、安藝守が子なれば先手をも申付べく候へ共、兩三度も能き働き致しなば、老功の者にも口を聞かせず、己一人の樣に豪言申べし、若し之を取立ては古老の習ひにて、初の程は取合もすまじけれども、長國も功を建ての上なれば、後には推參なりと存ずる氣出來挑み合ひ悶て致す間敷一戰抔し、老功の者に過ち出來なば我弓箭の落度なりと仰られ、御近習組の内百騎の士大將に仰付られ、御旗本の左右か、後に備へ、敵地放火刈田等の働き迫合抔あるべき所へは、大方此長國を指向けられたり、箇樣の儀は取分け、其身得手にて仕損ぜざる者に候と。景勝聞て、偖は早や勝利を得たり、敵の滅亡近々なりと言はれけり。偖詮議に敵大軍にて堅固の館に籠る故に、味方迅速の勝なし、景虎、長國とを兩方に引分け置かば、我は專らにして一ならん、其武略は某が一心の采幣にあり、一方勝利を得、景虎を打取らば、如何に長國なりとも踏み怺へて居ることなるまじ、長國を討取らば景虎は手に立つことにてなし。長國武道自慢にて某と勝負に利を得る程、景虎と一所に居ては獨立の譽れ聞えじと思ひ、景虎と引離れ、景勝へ對し一身の功名を志すべし。
新字:○天正六年輝虎卒しければ、景勝、三郎景虎と矛盾起る。厩橋の城主北城丹後守長国、景虎に与力し、度々春日山近辺に働く。景勝、長国さへ討取れば景虎は如何にもなるべしと思ひ、老功の者に、先づ長国の人となりを問ふ。皆曰く、士五十騎、或は、二百騎までの人数をば能く下知して引廻はし、敵の塁合を見積り一戦し、自身鎗を取て真先に進み戦ふ無類の若者にて候へ共、第一の瑾には慢心ありて高ぶり、人を見下し候間、不慮の誤りあるべきかと存候、謙信公御意にも無類の健気なる者なり、安芸守が子なれば先手をも申付べく候へ共、両三度も能き働き致しなば、老功の者にも口を聞かせず、己一人の様に豪言申べし、若し之を取立ては古老の習ひにて、初の程は取合もすまじけれども、長国も功を建ての上なれば、後には推参なりと存ずる気出来挑み合ひ悶て致す間敷一戦抔し、老功の者に過ち出来なば我弓箭の落度なりと仰られ、御近習組の内百騎の士大将に仰付られ、御旗本の左右か、後に備へ、敵地放火刈田等の働き迫合抔あるべき所へは、大方此長国を指向けられたり、箇様の儀は取分け、其身得手にて仕損ぜざる者に候と。景勝聞て、偖は早や勝利を得たり、敵の滅亡近々なりと言はれけり。偖詮議に敵大軍にて堅固の館に籠る故に、味方迅速の勝なし、景虎、長国とを両方に引分け置かば、我は専らにして一ならん、其武略は某が一心の采幣にあり、一方勝利を得、景虎を打取らば、如何に長国なりとも踏み怺へて居ることなるまじ、長国を討取らば景虎は手に立つことにてなし。長国武道自慢にて某と勝負に利を得る程、景虎と一所に居ては独立の誉れ聞えじと思ひ、景虎と引離れ、景勝へ対し一身の功名を志すべし。
書き下し
○天正六年輝虎卒しければ、景勝、三郎景虎と矛盾起る。厩橋の城主北城丹後守長國、景虎に與力し、度々春日山近邊に働く。景勝、長國さへ討取れば景虎は如何にもなるべしと思ひ、老功の者に、先づ長國の人となりを問ふ。皆曰く、士五十騎、或は、二百騎までの人數をば能く下知して引廻はし、敵の壘合を見積り一戰し、自身鎗を取て眞先に進み戰ふ無類の若者にて候へ共、第一の瑾には慢心ありて高ぶり、人を見下し候間、不慮の誤りあるべきかと存候、謙信公御意にも無類の健氣なる者なり、安藝守が子なれば先手をも申付べく候へ共、兩三度も能き働き致しなば、老功の者にも口を聞かせず、己一人の樣に豪言申べし、若し之を取立ては古老の習ひにて、初の程は取合もすまじけれども、長國も功を建ての上なれば、後には推參なりと存ずる氣出來挑み合ひ悶て致す間敷一戰抔し、老功の者に過ち出來なば我弓箭の落度なりと仰られ、御近習組の内百騎の士大將に仰付られ、御旗本の左右か、後に備へ、敵地放火刈田等の働き迫合抔あるべき所へは、大方此長國を指向けられたり、箇樣の儀は取分け、其身得手にて仕損ぜざる者に候と。景勝聞て、偖は早や勝利を得たり、敵の滅亡近々なりと言はれけり。偖詮議に敵大軍にて堅固の館に籠る故に、味方迅速の勝なし、景虎、長國とを兩方に引分け置かば、我は專らにして一ならん、其武略は某が一心の采幣にあり、一方勝利を得、景虎を打取らば、如何に長國なりとも踏み怺へて居ることなるまじ、長國を討取らば景虎は手に立つことにてなし。長國武道自慢にて某と勝負に利を得る程、景虎と一所に居ては獨立の譽れ聞えじと思ひ、景虎と引離れ、景勝へ對し一身の功名を志すべし。
現代語訳
天正六年に輝虎が亡くなると、景勝と三郎景虎の間に争いが起こった。厩橋の城主北条丹後守長国は景虎に味方し、たびたび春日山の近辺で働いた。景勝は、長国さえ討ち取れば景虎はどうにでもなるだろうと思い、老練な者に、まず長国の人となりを尋ねた。皆は言った。士五十騎、あるいは二百騎までの人数ならよく指揮して引き回し、敵の塁や合わせを見積もって一戦し、自身が槍を取って真っ先に進み戦う比類のない若者ですが、第一の瑕には慢心があって高ぶり、人を見下しますので、思いがけない誤りがあるかと存じます。謙信公のお考えでも、比類のない立派な者である、安芸守の子だから先手をも申し付けるべきだが、二、三度も良い働きをしたなら、老練な者にも口を利かせず、自分一人のように豪語するだろう。もしこれを取り立てれば、古参の習いとして初めのうちは取り合わないだろうけれども、長国も功を立てたうえなので、後にはでしゃばりと思う気持ちが起こって、挑み合って揉めてしまい、すまじき一戦などをして、老練な者に過ちが起これば、わが弓矢の落ち度だとおっしゃって、御近習組のうち百騎の士大将に命じ、御旗本の左右か後ろに備えさせ、敵地で放火や刈田などの働き、小競り合いなどがあるべきところへは、おおかたこの長国を差し向けられました。このようなことは、とりわけその身の得意で、仕損じない者でございます、と。景勝は聞いて、さてはすでに勝利を得た、敵の滅亡は近いと言った。さて詮議すると、敵は大軍で堅固な館に籠もっているので、味方は迅速には勝てない、景虎と長国とを両方に引き分けておけば、自分は専一にできて一つになるだろう。その武略は私一人の采配にある。一方が勝利を得て景虎を討ち取ったなら、長国といえども踏みこらえてはいまい。長国を討ち取れば、景虎は手に立つことはない。長国は武道自慢で、私と勝負して利を得るほど、景虎と一所にいては独立の誉れが聞こえまいと思い、景虎と引き離れ、景勝に対して一身の功名を志すだろう。
解説

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徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
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