名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 八分の賢と二分の悪
○太田資正、北城丹後守長國に語て曰く、謙信公の御人となりを見申に、十にして八つは大賢人、其二つは大惡人ならん、怒りに乘じて爲し給ふ所多くは僻事あり、是其惡き所なり。又猛勇にして、無欲、清淨にして、器量大、廉直にして隱すことなく、明敏にして能く察し、慈惠にして下を育し、好みて忠諫を容るゝ等の如き、是其善き所なり。末の世には有り難き名將なり。此故に其八つは賢人と申すなりと。
新字:○太田資正、北城丹後守長国に語て曰く、謙信公の御人となりを見申に、十にして八つは大賢人、其二つは大悪人ならん、怒りに乗じて為し給ふ所多くは僻事あり、是其悪き所なり。又猛勇にして、無欲、清浄にして、器量大、廉直にして隠すことなく、明敏にして能く察し、慈恵にして下を育し、好みて忠諫を容るゝ等の如き、是其善き所なり。末の世には有り難き名将なり。此故に其八つは賢人と申すなりと。
書き下し
○太田資正、北城丹後守長國に語て曰く、謙信公の御人となりを見申に、十にして八つは大賢人、其二つは大惡人ならん、怒りに乘じて爲し給ふ所多くは僻事あり、是其惡き所なり。又猛勇にして、無欲、清淨にして、器量大、廉直にして隱すことなく、明敏にして能く察し、慈惠にして下を育し、好みて忠諫を容るゝ等の如き、是其善き所なり。末の世には有り難き名將なり。此故に其八つは賢人と申すなりと。
現代語訳
太田資正が北条丹後守長国に語って言いました。謙信公のお人柄を拝見すると、十のうち八つは大賢人、残りの二つは大悪人でしょう。怒りに乗じて行われることの多くは誤ったことがあり、これがその悪いところです。また、勇猛で無欲、清らかで器量が大きく、廉直で隠し事がなく、聡明でよく察し、慈しみ深く下の者を育て、好んで忠告を受け入れるといったことは、その善いところです。末の世には得がたい名将です。だからその八つによって賢人と申すのです、と。
解説

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