呻吟語 / 内篇・應務・人を曉すは當に是の如くなるべきか
固可使之愧也,乃使之怨;固可使之悔也,乃使之怒;固可使之感也,乃使之恨。曉人當如是耶?
新字:固可使之愧也,乃使之怨;固可使之悔也,乃使之怒;固可使之感也,乃使之恨。暁人当如是耶?
書き下し
固より之をして愧ぢしむ可きに、乃ち之をして怨ましむ。固より之をして悔いしむ可きに、乃ち之をして怒らしむ。固より之をして感ぜしむ可きに、乃ち之をして恨ましむ。人を曉すは當に是の如くなるべきか。
現代語訳
本来なら恥じさせられたはずなのに、怨ませてしまう。本来なら悔いさせられたはずなのに、怒らせてしまう。本来なら感じ入らせられたはずなのに、恨ませてしまう。人に分からせるとは、こういうことでしょうか。
解説
忠告が裏目に出る様子を、三つの対で示します。恥が怨みに、悔いが怒りに、感謝が恨みに変わる。どれも一字違いのように近い感情ですが、行き先は正反対です。伝え方を誤ると、届くはずの反応がそっくり裏返るということ。最後の反語が効いていて、伝え方の失敗を当人に気づかせる形になっています。伝え方の失敗を、当人に気づかせる形になっています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
忠告逆効果恥怨み伝え方
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『武士訓』卷四・第8段わがあしき事をつぐる人あらば。拜してよろこぶべし。太公曰。女無明鏡。不知面精粗。士無良友。不知行歩虧踰とあるがごとし。およそ一箇のおくりものを得てだに。よろこんでむくひんことをおもふ。いはむや身をおさむるのたよりとなれることをや。其あやまちをきくことをいはば。身をほろぼすの大敵うちに有とわきまふべし。
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