名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 竹の指揮棒と家訓
○輝虎、體、短小にして、左脛に氣腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鐵小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び團扇を用ふることなし。用ふることは僅に兩三囘に過ぎず、恒に三尺許りの靑竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心廣く體泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心靜なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半國除)陸奧二郡、出羽五郡、常陸三郡の國々を討ち隨へ、當時織田信長が將軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸國に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辭世の和歌を詠ず。「極樂も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
新字:○輝虎、体、短小にして、左脛に気腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鉄小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び団扇を用ふることなし。用ふることは僅に両三囘に過ぎず、恒に三尺許りの青竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心広く体泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心静なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半国除)陸奥二郡、出羽五郡、常陸三郡の国々を討ち随へ、当時織田信長が将軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸国に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辞世の和歌を詠ず。「極楽も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
書き下し
○輝虎、體、短小にして、左脛に氣腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鐵小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び團扇を用ふることなし。用ふることは僅に兩三囘に過ぎず、恒に三尺許りの靑竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心廣く體泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心靜なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半國除)陸奧二郡、出羽五郡、常陸三郡の國々を討ち隨へ、當時織田信長が將軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸國に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辭世の和歌を詠ず。「極樂も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
現代語訳
輝虎は、体が小さく短く、左のすねに気腫があって筋がひきつっていました。ふだんは甲冑を着けず、黒い木綿の胴服をまとい、鉄の小さな鸞笠をかぶり、生涯、采配も団扇も用いませんでした。用いたのはわずか二、三度にすぎず、いつも三尺ほどの青竹を取って人々を指図しました。これは梁の常叙の竹如意になぞらえたものだと言われます。 輝虎の家訓にいいます。心に物がないときは心が広く体も安らか。心に我慢がないときは、愛も敬いも失わない。心に欲がないときは、義理を行う。心に私がないときは、疑うことがない。心に驕りがないときは、人を敬う。心に誤りがないときは、人を畏れない。心に邪な見方がないときは、人を育てる。心に貪りがないときは、人にへつらうことがない。心に怒りがないときは、言葉がやわらかい。心に堪忍があるときは、ことがととのう。心に曇りがないときは、心が静か。心に勇があるときは、悔いることがない。心が賤しくないときは、願い好むことがない。心に孝行があるときは、忠節が厚い。心に自慢がないときは、人の善を知り、心に迷いがないときは、人をとがめない。 輝虎は十四歳から弓矢を執り、三十六年のあいだ北陸、東山、東海の諸道に威を振るい、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野(註:半国を除く)、陸奥の二郡、出羽の五郡、常陸の三郡の国々を討ち従えました。当時、織田信長が将軍家を軽んじていると聞いて大いに憤り、それならば信長を退治して意見もしようと、天正六年三月、越後の雪の消えるのを待って都へ攻め上ろうと、すでに諸国に軍勢を催促しました。この年の二月なかばから、どうということもなく不調になり、同じ三月十三日についに亡くなりました。辞世の和歌を詠みます。「極楽も地獄も先は有明の月ぞ心に掛る雲なき」
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 落ち目を攻めない理由○晴信死去の由聞えし時、老臣共此虛に乘じて信濃に御出陣候ひなば、皆御手に入るべしと勸めけれども、輝虎聽かず、若き勝頼の代替を目掛て取らんこと、長氣なき振舞なりとて、出陣せず。又長篠の役後、勸めし者あり。輝虎曰く、今我出陣せば甲斐まで取るべし、然れども人の落目を見て攻め取るは、本意ならぬことなりと言て、終に勝頼の領國に出兵せず。 ○四年、輝虎、加賀松任を屠る。織田信長後援せしが、城陷るを聞て、奔潰す。時に越中神保の押へに置く者を始め、直江、柴田の諸將まで、此勢に乘じ神保を擊んと勸む。輝虎聞て、夫は遠慮なきことなり、武田信玄は六分の勝を、常に全き勝として、七八分には竟にせざる由聞き及びたり。今度は信長五萬餘人の目前にて、松任の要害を一日に乘取り、殊に城主剛強と聞ゆる長筑前守兄弟を打取り、其上に信長方に前方案内を申入、此方より仕掛け追崩したるは、十一分に過ぎたる大勝なり。其上又神保へ働き、越中まで治むること、凡そ十八分と言ふは、是等ならん。天道は滿るを缺くと申ことあれば、先々此度は歸陣尤もなり。信玄ならば、何にとして松任の城を攻落して、大聖寺の陣へ仕掛け申べきや、此分が吾等が信玄に及ばざる所の一つなりと言はれければ、何れも感服して、翌日歸陣せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 心を証人とする武辺○輝虎、落合彦助に語て曰く、武田勝頼小姓阿部加賀、十餘年以前に、河中島にて汝を討ちたりとて、信玄喜び、既に加賀を褒美したりと聞けり。是は加賀なきことを作りて言ひたるか、武田家の弱み之に過ぐべからず、總て一切の武邊、吾心を證人とするより外なし、心を證せずして取はやし言成したることは、必定弱きこととなり、莫大の働きをして其名隱れ埋るとも、心を證とすれば、則ち恨なし。去ればにや、君子 慎レ獨 とあるぞかしと。 ○輝虎越後の土物蠟燭、金引、鮭の鹽引、黄檗抔の商人を作りて、國々に遣はし、人情地形を窺はしめ、審に其事を問て、自ら記し置て之を見る故に、其主の淑德、其將の能否、其國の虛實、其地の險易、其兵の多少、百里二百里の外も具に知れずと云ふことなし。