名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 評・気持ちのいい大将
上杉謙信は、元長尾氏で、關東八平氏の一つである。元來、相州長尾の莊にゐたので、長尾を稱した。先祖が、關東から足利氏の一族たる上杉氏の家老として越後に行き、上杉氏の衰ふるに及んで勢力を得て、謙信の父爲景の時、越後に雄覘したのである。これも、下剋上の一例である。爲景の死後、兄晴景繼いだが、國内治まらず、謙信わづかに十四歳にして、戰陣に出でゝ、十九歳の時長尾家を相續し、國内を鎭定した。 兄を倒したと云ふ惡名が殘つてゐないのは、兄に代るべき充分な理由があつたからである。しかし、謙信が上杉氏を冐したのは、越後上杉家を嗣いだ爲でなく、關東管領の山ノ内上杉家の憲政から、關東管領と同時に、上杉氏を讓られたからである。 初の名は、景虎、後に憲政から一字を貰つて政虎、その後將軍義輝から一字を貰つて、輝虎と改名したのである。本文を讀めば、誰人も感ずる通、實に氣持のいゝ大將である。勤王の志もあり、あくまで日本人好みの好武將である。わづか五尺そこ〳〵の小男でありながら、その猛威のほどが察せられる。たゞ、信玄や元就などに比べると、政治家的素質が缺けてゐる。しかし、それがあると、人間に何處となく、陰險なところが出來るのである。 謙信自身、義經の武邊を習つたと云つてゐるが、前には義經後には謙信、この二人位いかにも武將らしい武將は、外にあるまい。 たゞ、かつと怒ると、隨分思ひ切つたことをやつたらしい。十にして八つは大賢人、二つは大惡人ならん……、と云ふ太田三樂の謙信評は、謙信の人物を躍如たらしめてゐる。
新字:上杉謙信は、元長尾氏で、関東八平氏の一つである。元来、相州長尾の荘にゐたので、長尾を称した。先祖が、関東から足利氏の一族たる上杉氏の家老として越後に行き、上杉氏の衰ふるに及んで勢力を得て、謙信の父為景の時、越後に雄覘したのである。これも、下剋上の一例である。為景の死後、兄晴景継いだが、国内治まらず、謙信わづかに十四歳にして、戦陣に出でゝ、十九歳の時長尾家を相続し、国内を鎮定した。 兄を倒したと云ふ悪名が残つてゐないのは、兄に代るべき充分な理由があつたからである。しかし、謙信が上杉氏を冐したのは、越後上杉家を嗣いだ為でなく、関東管領の山ノ内上杉家の憲政から、関東管領と同時に、上杉氏を譲られたからである。 初の名は、景虎、後に憲政から一字を貰つて政虎、その後将軍義輝から一字を貰つて、輝虎と改名したのである。本文を読めば、誰人も感ずる通、実に気持のいゝ大将である。勤王の志もあり、あくまで日本人好みの好武将である。わづか五尺そこ〳〵の小男でありながら、その猛威のほどが察せられる。たゞ、信玄や元就などに比べると、政治家的素質が欠けてゐる。しかし、それがあると、人間に何処となく、陰険なところが出来るのである。 謙信自身、義経の武辺を習つたと云つてゐるが、前には義経後には謙信、この二人位いかにも武将らしい武将は、外にあるまい。 たゞ、かつと怒ると、随分思ひ切つたことをやつたらしい。十にして八つは大賢人、二つは大悪人ならん……、と云ふ太田三楽の謙信評は、謙信の人物を躍如たらしめてゐる。
書き下し
上杉謙信は、元長尾氏で、關東八平氏の一つである。元來、相州長尾の莊にゐたので、長尾を稱した。先祖が、關東から足利氏の一族たる上杉氏の家老として越後に行き、上杉氏の衰ふるに及んで勢力を得て、謙信の父爲景の時、越後に雄覘したのである。これも、下剋上の一例である。爲景の死後、兄晴景繼いだが、國内治まらず、謙信わづかに十四歳にして、戰陣に出でゝ、十九歳の時長尾家を相續し、國内を鎭定した。 兄を倒したと云ふ惡名が殘つてゐないのは、兄に代るべき充分な理由があつたからである。しかし、謙信が上杉氏を冐したのは、越後上杉家を嗣いだ爲でなく、關東管領の山ノ内上杉家の憲政から、關東管領と同時に、上杉氏を讓られたからである。 初の名は、景虎、後に憲政から一字を貰つて政虎、その後將軍義輝から一字を貰つて、輝虎と改名したのである。本文を讀めば、誰人も感ずる通、實に氣持のいゝ大將である。勤王の志もあり、あくまで日本人好みの好武將である。わづか五尺そこ〳〵の小男でありながら、その猛威のほどが察せられる。たゞ、信玄や元就などに比べると、政治家的素質が缺けてゐる。しかし、それがあると、人間に何處となく、陰險なところが出來るのである。 謙信自身、義經の武邊を習つたと云つてゐるが、前には義經後には謙信、この二人位いかにも武將らしい武將は、外にあるまい。 たゞ、かつと怒ると、隨分思ひ切つたことをやつたらしい。十にして八つは大賢人、二つは大惡人ならん……、と云ふ太田三樂の謙信評は、謙信の人物を躍如たらしめてゐる。
現代語訳
上杉謙信は、もと長尾氏で、関東八平氏の一つである。もともと相州の長尾の荘にいたので、長尾を称した。先祖が、関東から足利氏の一族である上杉氏の家老として越後に行き、上杉氏が衰えると勢力を得て、謙信の父為景の時、越後に雄飛したのである。これも、下剋上の一例である。為景の死後、兄の晴景が継いだが、国内が治まらず、謙信はわずか十四歳で戦陣に出て、十九歳の時に長尾家を相続し、国内を鎮定した。 兄を倒したという悪名が残っていないのは、兄に代わるべき十分な理由があったからである。しかし、謙信が上杉氏を名乗ったのは、越後上杉家を嗣いだためではなく、関東管領の山ノ内上杉家の憲政から、関東管領と同時に、上杉氏を譲られたからである。 初めの名は景虎、のちに憲政から一字をもらって政虎、その後将軍義輝から一字をもらって、輝虎と改名したのである。本文を読めば、誰もが感じるとおり、実に気持ちのいい大将である。勤王の志もあり、あくまで日本人好みの好武将である。わずか五尺そこそこの小男でありながら、その猛威のほどが察せられる。ただ、信玄や元就などに比べると、政治家的素質が欠けている。しかし、それがあると、人間にどことなく、陰険なところができるのである。 謙信自身、義経の武辺を習ったと言っているが、前には義経、後には謙信、この二人ほどいかにも武将らしい武将は、ほかにあるまい。 ただ、かっと怒ると、ずいぶん思い切ったことをやったらしい。十のうち八つは大賢人、二つは大悪人ならん……、という太田三楽の謙信評は、謙信の人物を躍如とさせている。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 虎千代、寺に預けられる長尾信濃守爲景の子、上杉憲政の讓を受け、從四位下に叙し彈正少弼に任ず。關東の管領と爲る。後髮を削り、不識菴謙信と號し、春日山城に住す。初め景虎、政虎、後將軍義輝の偏名を賜はりて、今の名に改む。天正六年三月十三日卒す。年四十九。 ○輝虎、幼名虎千代と云ふ。兒たりし時、遊戲尋常にあらず、假初の翫びも異樣なるを好み、精悍にして膽略あり。動もすれば、父爲景の意に違ふ。爲景之を愛せず、出家させんとて、橡尾の淨安寺に遣はす。虎千代僧と成るを嫌ひて、背て僧事を學ばず、日に山童と戰鬪の狀を爲す。時に年八歲、寺僧終に僧たるべからずと思ひ、卽ち爲景に遣歸せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 八分の賢と二分の悪○太田資正、北城丹後守長國に語て曰く、謙信公の御人となりを見申に、十にして八つは大賢人、其二つは大惡人ならん、怒りに乘じて爲し給ふ所多くは僻事あり、是其惡き所なり。又猛勇にして、無欲、清淨にして、器量大、廉直にして隱すことなく、明敏にして能く察し、慈惠にして下を育し、好みて忠諫を容るゝ等の如き、是其善き所なり。末の世には有り難き名將なり。此故に其八つは賢人と申すなりと。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 主の座を辞して令を通す○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸將相議し、輝虎を立て主と爲さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髮を剃り、謙信と號し、世を遁れ高野山に赴んと言て、關の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸將の愛戴を忝くし水火に赴くとも辭すべからざる所なり、唯不才にて上將の任に當り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸將皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に歸り、明日命を專にする大臣十六人を收め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て國中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戰て敗績し、越後に來て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる樣如何と問ふ。義清、十年以來信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする樣にて少しもせず、勝ての後は戰前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、國を多く取るべきとの、臆見なり。我は國を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戰を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉景勝 評・貧乏大名の誇り謙信の姉婿長尾政景の子である。が、父は謙信に殺されてゐるのである。政景は、謙信の少年時代には之に敵對したことがある、あまりに猛將で謙信にも統御しかねたらしい。だから、景勝としては、なか〳〵やりにくい立場にゐたわけであるが、そこを切り拔けて謙信の信用を得て、その後嗣となつたのだから、景勝も相當の人物である。 五大老の一人として、秀吉死後家康の大軍を會津に迎へて、ビクともしなかつたのである。 石田三成と通謀してゐたとも云ふが、通謀してゐなかつたと云ふ方が、史實であるらしい。しかし、さうした冒險をしながら家を亡ぼさなかつたのであるから、偉いと云つていゝ。 上杉家は、後に三十萬石から、適當な嗣子がないために、更に十五萬石に減知された。百二十萬石の家格が、しまひには十五萬石になつたのだから、江戸時代中一番の貧乏大名であつた。錆が出て困る品物に、上杉彈正大弼と書いて帖つて置いたと云ふ。金氣がないと云ふまじないであつた。 しかし、謙信のやうな名將の後は、たとひ十五萬石でも大名として殘つた事は、よろこばしい事だと思ふ。 武田家なぞ、新羅三郎以來の名家で上杉以上だが、亡んだのでは仕方がない。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 人を見る目と不忠への怒り○憲政の老臣長尾意玄、氏康の日に强大なるを患ひ、本間近江、井俣左近をして、伴はりて氏康に仕へしめ、其狀を伺察せしむ。二人居ること歳餘にして平井に歸り申樣、臣等氏康の人となりを熟視するに、沈毅にして測られず、剛柔兼濟ひ、或は書を讀み、或は刃鎗を用ひ、能く禮節を正し、威重に自持し、功を錄するに下賤を略せず、士を用ふること老となく、少となく、皆其器に適せり。其子弟嫡嗣にあらずと雖も、皆俸を給ひ、用に充つ、功あれば前ち進む、故に其下畏れて之を愛し、人々自奮し爲めに死を效さんと願へり、且つ上杉の將士皆陰に款を通ぜり、其通ぜざる者僅に九人のみと言ふ。意玄二人の申し所を以て、憲政が非を諫む、憲政漸く之を改む。幾程なく菅野大膳信方、上原兵庫の言を用ひ、又大に政事に怠れり。 ○二十年、憲政越後に奔る、其子龍若丸が乳母の夫妻鹿田新介、一族八人、龍若を餌にして來り降り、身の榮華を求めんとす。氏康曰く妻鹿田一族の奴原は餘りに替はりたる不義不忠なり、忠義を存し叶はぬまでも、深く隱くし、時を窺ひ謀を廻らし、再び喜運を開かるべしと神佛に掛けても祈るべきに、夫までこそなからめ、正き育君を敵に渡し降人に出で世にあらんとする條頗る人倫の行ひにあらず。昔西土の豫讓は形を變じ舊君の爲めに仇を報い程嬰の我子を殺して幼主の命に替はりけることもあるぞかし、とて涙を流して大に惡み怒り、後世の見懲らしの爲めにとて、一々に磔に掛られたり。
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 評・信玄という大人物上杉謙信は、武將の中の人氣者であるだけに、それと相拮抗した武田信玄は、いくらか惡玉視されてるが、しかしそんな惡人ではない。親を追ひ出したやうに見えるが、しかし親の方が、頼りないので、國人が子を押し立てたと云ふのに過ぎないので、戰爭にかけては、日本一の名將だし、民政家としても、軍略、軍制の達人としても、その遺法が永く德川氏に傳つたと云ふのであるから、相當の大人物である。戰國時代に於ても同じ人數で戰爭をすれば、信玄に及ぶものは、居なかつたのではないかと思はれる。富國强兵の軍國としては、甲州が日本一であつたのである。 信玄一代は、將士が手足の如く働いたところを見ると、士心を得る法もちやんと心得てゐたのであらう。合理的で手かたく、公平で、筋道の通つた仕置をしてゐたのである。嚴格だが、無理はしなかつたのであらう。 信玄の生前は、家康なども大人と子供位に勢力が違つてゐたのである。信玄の死んだ後、長篠合戰の時だつて、德川や織田の兵士は、ビク/\ものであつた。信玄の喪を秘した丈で、二、三年も武田の武威を落さなかつたのであるから、その威名がいかに遠近を壓してゐたかと分る。 勝頼も、後世で云ふほど、愚將ではなかつたのであらうが、鐵砲と云ふ近代の武器を巧みに應用した信長の戰法のために、一敗地に塗れたのであらう。柵を結つて、足輕を伏せて置き、山縣や馬場など云ふ甲州名代の猛將が、柵にひつかゝつて、マゴ/\するところを打ちすくめたのである。 武田の敗北と云ふよりも、新しい戰術の勝利であつたのである。