呻吟語 / 内篇・應務・忠告して善く之を道く
今子弟受父兄之責也,尚有所不堪,而況他人乎?孔子曰:「忠告而善道之,不可則止。」此語不止全交,亦可養氣。
新字:今子弟受父兄之責也,尚有所不堪,而況他人乎?孔子曰:「忠告而善道之,不可則止。」此語不止全交,亦可養気。
書き下し
今子弟の父兄の責を受くるや、尚ほ堪へざる所有り。而るに況んや他人をや。孔子曰く、「忠告して善く之を道き、不可なれば則ち止む」と。此の語は交はりを全うするに止まらず、亦た以て氣を養ふ可し。
現代語訳
今の子弟は父や兄から責められてさえ、耐えられないところがあります。まして他人からならなおさらです。孔子は、真心をもって告げ上手に導き、聞き入れられなければやめよと言いました。この言葉は交わりを全うするだけでなく、自分の気を養うことにもなります。
解説
忠告の限界を、身内の例から導きます。親や兄の言葉すら受け止められないのだから、他人ならなおさら届かない。そこで孔子の、聞き入れられなければやめよという一句が引かれます。そして最後の一言が面白い。やめることは相手のためだけでなく、自分の気を守ることにもなる。忠告をやめる理由が二つ示された形です。やめる理由が二つ示されているのが、この一段の要点です。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
忠告限界やめる交わり養気
関連する章句
-
『武士訓』卷四・第8段わがあしき事をつぐる人あらば。拜してよろこぶべし。太公曰。女無明鏡。不知面精粗。士無良友。不知行歩虧踰とあるがごとし。およそ一箇のおくりものを得てだに。よろこんでむくひんことをおもふ。いはむや身をおさむるのたよりとなれることをや。其あやまちをきくことをいはば。身をほろぼすの大敵うちに有とわきまふべし。
-
自警録・第二十章 忠告の取捨・教訓を責道具に使うなかれこういう僕もこれより言わんと欲することについて、自ら反対の例となるの恐れなきにしも非ざれども、言わずにおれば、なおさら悪例の一つとなるに過ぎぬから、しばらく読者の耳をかりたい。読者も必ず僕と同じ経験があるであろうが、とかくに他人の我々に与うる忠告や訓戒は、われわれの身にとってはなはだ見当ちがいであるごとき感を与えることが多い。 老人らが懇々と吾人に身の治め方について説いてくれるときでも、この老いぼれめが維新前の話をしているわいと、馬耳東風に聞き流すことが多い。また吾人の真情や実況を一通り心得ている友人が懇切に我々に忠告するときにも、ややもすればこの男がまだまだ俺の腹の中を知らんわい、なんと見当違ったことをいうものかと、胸底で笑いたくなることもある。 またわれわれが『論語』や『聖書』を読み万世不朽の金言と称せらるる教訓に触れても、甘いことをいっている、この訓は某に聞かしてやりたいものだと、おのれの身にあてはめて考えるよりは、他人に応用する心地することがままある。 ゆえに、少しく油断すると聖人君子の言葉を用いて他人を責むる道具とする懼がある。さればこそ、他人を偽君子と呼び、不忠不義と罵り、あるいは説教するに聖人の句を引用して人を罪するごとき面白おかしいことがとかくありがちである。 こういうふうに他人が吾人のために与うる訓戒も、友人が精神より述ぶる忠告も、先賢が血を流して教えた大義も、自分の身の上には直接あてはまらないように思うことの多きゆえんは、一つには自分がこれらの言を充分に味わう境涯に達しない、すなわち自己の非を悟らず自己の弱点を察しないゆえである。また一つには忠告する者が吾人の境遇を充分知らぬゆえである。
-
易経・夬卦勝たずして往くは、咎なり。莫夜に戎有るも、中道を得ればなり。君子夬夬たるは、終に咎无きなり。其の行くこと次且たるは、位当らざればなり。言を聞きて信ぜざるは、聡明らかならざればなり。中行なれば咎无しとは、中未だ光いならざるなり。号ぶこと无きの凶は、終に長かるべからざるなり。
-
『斉家論』上然れども推し出だし儒者とはいはれまじ。又世間に沙汰なき人にも出会うて見れば、経書はいふに及ばず、詩作文章達者なる能き学者あり。又儒者ならねども、少し心がけある人には、汝ぐらゐの学者は町並にも有るべし。其の中にて無縁の講釈すると、口広き事はいはれまじ。夫をもかまはず書付を出だされなば、聴く者もあるべけれど、一度聞きては、素読同前の講釈なりといひ、又口の悪しき者は、あの学問にて講釈するは、笑ふにたらずと譏るべし。たとひ十日廿日入れかはり聴衆ありとも、つづくまじ。其の時に至り、しまはんよりは、今七八年も学問し出でられなば、本望もとげ、恥を受くることも少なからんといはれし人も、過ぎ去りむかしがたりになりぬ。或人のいへるごとく、
-
『呻吟語』内篇・修身・我を攻むるの益に感ず我が過ちを攻むる者は、未だ必ずしも皆な過ち無きの人ならざるなり。苟しくも過ち無きの人の我を攻むるを求めば、則ち終身過ちを聞くを得ざらん。我は當に其の我を攻むるの益に感ずるのみ。彼に過ち有るか過ち無きか、何ぞ計るに暇あらんや。
-
自警録・第二十章 忠告の取捨・功を奏する忠告と奏せぬ忠告(1)人を批評するにも、人を判断するにも、また人に忠告を与えるにも、先方の事情を深くかつ同情的に汲むにあらざれば、われわれの批評がけっしてその当を得ない。かえってわれわれの判断が誤りやすい、すなわちわれわれの忠告は功を奏しない。 管仲が戦場で遁げたからとてただちにこれを卑怯と批評し臆病者と判断し、しかして勇敢なれと忠告した者があったならば、おそらく彼は腹の底で笑うのみであったろう。彼を知る鮑叔が彼を目して臆病者とも卑怯者とも言わなかったのは、彼の人となりと、彼の事情を知っているからである。 僕はずいぶん異なった境遇に遭遇したあまたの人に接して考える。教訓も忠告も、その百分の一も功の無きはこれを受ける人の真情に当たらぬのと、これを受ける人に対する同情の薄きによると思う。約言すればとかくわれわれの忠告なるものには誠意誠心が欠けがちで、軽々しくするがゆえに、先方を動かさぬは当然のことである。人に忠告せんと思う者は口に言を発するに先だちて深く心に念ずるこそ順序であろう。また人より忠告を受くるものは先方の誠意を疑ってはならぬ。彼の言は長く心中に念じたる結果、やむなく口外に出でたるものと思えば、これ実に天の声である。 貝原益軒がものせる『大和俗訓』の中に、忠告に関するまことに穿った教訓があるから、左に抜萃する。