名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 心を証人とする武辺
○輝虎、落合彦助に語て曰く、武田勝頼小姓阿部加賀、十餘年以前に、河中島にて汝を討ちたりとて、信玄喜び、既に加賀を褒美したりと聞けり。是は加賀なきことを作りて言ひたるか、武田家の弱み之に過ぐべからず、總て一切の武邊、吾心を證人とするより外なし、心を證せずして取はやし言成したることは、必定弱きこととなり、莫大の働きをして其名隱れ埋るとも、心を證とすれば、則ち恨なし。去ればにや、君子 慎レ獨 とあるぞかしと。 ○輝虎越後の土物蠟燭、金引、鮭の鹽引、黄檗抔の商人を作りて、國々に遣はし、人情地形を窺はしめ、審に其事を問て、自ら記し置て之を見る故に、其主の淑德、其將の能否、其國の虛實、其地の險易、其兵の多少、百里二百里の外も具に知れずと云ふことなし。
新字:○輝虎、落合彦助に語て曰く、武田勝頼小姓阿部加賀、十余年以前に、河中島にて汝を討ちたりとて、信玄喜び、既に加賀を褒美したりと聞けり。是は加賀なきことを作りて言ひたるか、武田家の弱み之に過ぐべからず、総て一切の武辺、吾心を証人とするより外なし、心を証せずして取はやし言成したることは、必定弱きこととなり、莫大の働きをして其名隠れ埋るとも、心を証とすれば、則ち恨なし。去ればにや、君子 慎レ独 とあるぞかしと。 ○輝虎越後の土物蝋燭、金引、鮭の塩引、黄檗抔の商人を作りて、国々に遣はし、人情地形を窺はしめ、審に其事を問て、自ら記し置て之を見る故に、其主の淑徳、其将の能否、其国の虚実、其地の険易、其兵の多少、百里二百里の外も具に知れずと云ふことなし。
書き下し
○輝虎、落合彦助に語て曰く、武田勝頼小姓阿部加賀、十餘年以前に、河中島にて汝を討ちたりとて、信玄喜び、既に加賀を褒美したりと聞けり。是は加賀なきことを作りて言ひたるか、武田家の弱み之に過ぐべからず、總て一切の武邊、吾心を證人とするより外なし、心を證せずして取はやし言成したることは、必定弱きこととなり、莫大の働きをして其名隱れ埋るとも、心を證とすれば、則ち恨なし。去ればにや、君子 慎レ獨 とあるぞかしと。 ○輝虎越後の土物蠟燭、金引、鮭の鹽引、黄檗抔の商人を作りて、國々に遣はし、人情地形を窺はしめ、審に其事を問て、自ら記し置て之を見る故に、其主の淑德、其將の能否、其國の虛實、其地の險易、其兵の多少、百里二百里の外も具に知れずと云ふことなし。
現代語訳
輝虎は、落合彦助に語って言いました。「武田勝頼の小姓、阿部加賀が、十年余り前に川中島で汝を討ったと言って、信玄が喜び、すでに加賀を褒美したと聞いた。これは加賀がなかったことを作って言ったのか。武田家の弱みはこれに過ぎるものはない。すべて一切の武辺は、わが心を証人とするほかない。心を証せずに取りはやして言い成したことは、必ず弱いこととなる。莫大な働きをしてその名が隠れ埋もれても、心を証とすれば、恨みはない。だからこそ『君子は独りを慎む』とあるのだろう」と。 輝虎は、越後の産物である蝋燭、金引、鮭の塩引き、黄檗などの商人を仕立てて、諸国へ遣わし、人情や地形をうかがわせ、詳しくその事を問い、自ら書き留めておいてこれを見ました。そのため、その主の人徳、その将の能否、その国の実情、その地の険しさや平らかさ、その兵の多少を、百里二百里の外のことまで詳しく知らないということがありませんでした。
解説

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