名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 去った近臣と若き刺客
○輝虎の出頭人、小森澤某出奔す。人皆輝虎が目利違ひたると言ふ。輝虎聞て、小森澤が出奔誠に不思議なりと言はれけり。夫より三年の後上野新田邊へ、輝虎働き出づ。何つも二三騎にて總人數より五里も七里も先きに斥候に出ける。敵聞て鳥銃にて打べしとて、切所を見立鳥銃三挺置て待ちたり。其時小森澤、六七町走來りて之を告て曰く、日頃輕き働を成し給ふに付、箇樣の大事あるべきかと思ひ、新田へ參り奉公しければ、輝虎を汝見知りたるかと申て指越候と。輝虎淚を流し、其忠志を感じ小森澤に加恩を賜へり。爰に至りて人皆輝虎の明鑑に服せり。 ○輝虎、越中の神保と戰ひ、屢々之を破る。神保勝つべからざるを知り高木左傳と云ふ十六歳になりし者を、陽はり怒て罪ありし如くにして追出し、輝虎に仕へしめ、間を窺て之を刺殺さしめんとす。輝虎去る大將なれば、其才を愛せしかども、敢て近付けず。左傳如何共することなく、居ること歳餘、輝虎、左傳を召し、汝は是神保が刺客なり、我之を知れり我にして汝を殺すは最易けれども、臣各其主の爲めにする段殊勝の至りなれば、其罪を赦すなり、疾く歸り、汝が主に告けよ、輝虎術中に陥らずと。左傳事の成らざるを知り自殺す。輝虎聞て、彼が忠死を惜み、感涙を流されけり。
新字:○輝虎の出頭人、小森沢某出奔す。人皆輝虎が目利違ひたると言ふ。輝虎聞て、小森沢が出奔誠に不思議なりと言はれけり。夫より三年の後上野新田辺へ、輝虎働き出づ。何つも二三騎にて総人数より五里も七里も先きに斥候に出ける。敵聞て鳥銃にて打べしとて、切所を見立鳥銃三挺置て待ちたり。其時小森沢、六七町走来りて之を告て曰く、日頃軽き働を成し給ふに付、箇様の大事あるべきかと思ひ、新田へ参り奉公しければ、輝虎を汝見知りたるかと申て指越候と。輝虎涙を流し、其忠志を感じ小森沢に加恩を賜へり。爰に至りて人皆輝虎の明鑑に服せり。 ○輝虎、越中の神保と戦ひ、屡々之を破る。神保勝つべからざるを知り高木左伝と云ふ十六歳になりし者を、陽はり怒て罪ありし如くにして追出し、輝虎に仕へしめ、間を窺て之を刺殺さしめんとす。輝虎去る大将なれば、其才を愛せしかども、敢て近付けず。左伝如何共することなく、居ること歳余、輝虎、左伝を召し、汝は是神保が刺客なり、我之を知れり我にして汝を殺すは最易けれども、臣各其主の為めにする段殊勝の至りなれば、其罪を赦すなり、疾く帰り、汝が主に告けよ、輝虎術中に陥らずと。左伝事の成らざるを知り自殺す。輝虎聞て、彼が忠死を惜み、感涙を流されけり。
書き下し
○輝虎の出頭人、小森澤某出奔す。人皆輝虎が目利違ひたると言ふ。輝虎聞て、小森澤が出奔誠に不思議なりと言はれけり。夫より三年の後上野新田邊へ、輝虎働き出づ。何つも二三騎にて總人數より五里も七里も先きに斥候に出ける。敵聞て鳥銃にて打べしとて、切所を見立鳥銃三挺置て待ちたり。其時小森澤、六七町走來りて之を告て曰く、日頃輕き働を成し給ふに付、箇樣の大事あるべきかと思ひ、新田へ參り奉公しければ、輝虎を汝見知りたるかと申て指越候と。輝虎淚を流し、其忠志を感じ小森澤に加恩を賜へり。爰に至りて人皆輝虎の明鑑に服せり。 ○輝虎、越中の神保と戰ひ、屢々之を破る。神保勝つべからざるを知り高木左傳と云ふ十六歳になりし者を、陽はり怒て罪ありし如くにして追出し、輝虎に仕へしめ、間を窺て之を刺殺さしめんとす。輝虎去る大將なれば、其才を愛せしかども、敢て近付けず。左傳如何共することなく、居ること歳餘、輝虎、左傳を召し、汝は是神保が刺客なり、我之を知れり我にして汝を殺すは最易けれども、臣各其主の爲めにする段殊勝の至りなれば、其罪を赦すなり、疾く歸り、汝が主に告けよ、輝虎術中に陥らずと。左傳事の成らざるを知り自殺す。輝虎聞て、彼が忠死を惜み、感涙を流されけり。
現代語訳
輝虎の出頭人である小森沢某が出奔しました。人々は皆、輝虎の目利き違いだと言いました。輝虎は聞いて、「小森沢の出奔は誠に不思議だ」と言われました。それから三年ののち、上野の新田のあたりへ輝虎が出陣しました。いつも二、三騎で、総人数より五里も七里も先に斥候に出ました。敵はこれを聞いて、鳥銃で撃とうと、切所を見立てて鳥銃三挺を置いて待っていました。そのとき小森沢が六、七町走って来て、これを告げて言いました。「日ごろ軽々しい働きをなさるので、このような大事があるかもしれないと思い、新田へ参り奉公しました。すると『輝虎をお前は見知っているか』と言って、私を差し向けたのです」と。輝虎は涙を流し、その忠志に感じて、小森沢に加恩を賜りました。ここに至って、人々は皆、輝虎の明鑑に服しました。 輝虎は、越中の神保と戦い、しばしばこれを破りました。神保は勝てないと知り、高木左伝という十六歳になる者を、偽り怒って罪があったかのようにして追い出し、輝虎に仕えさせ、隙をうかがって刺し殺させようとしました。輝虎はそれと察する大将でしたので、その才を愛しましたが、あえて近づけませんでした。左伝はどうすることもできず、一年余りがたちました。輝虎は左伝を召して言いました。「お前は神保の刺客である。私はそれを知っている。私がお前を殺すのは最も易しいことだが、臣がそれぞれ主のために尽くすのは殊勝の至りであるから、その罪を赦す。早く帰り、お前の主に告げよ、輝虎は術中に陥らなかったと」と。左伝は事が成らないと知り、自殺しました。輝虎はこれを聞き、その忠死を惜しんで感涙を流されました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 竹の指揮棒と家訓○輝虎、體、短小にして、左脛に氣腫ありて、攣筋なり。居常に甲せず、黒棉布胴服を著し、鐵小の鸞笠を被り、世を終るまで、麾及び團扇を用ふることなし。用ふることは僅に兩三囘に過ぎず、恒に三尺許りの靑竹を採り、以て衆を指麾す。之を梁常叙の竹如意に擬すと云ふ。 ○輝虎家訓に曰く、心に物なき時は心廣く體泰なり、心に我慢なき時は、愛敬失はず。心に欲なき時は、義理を行ふ。心に私なき時は疑ふことなし。心に驕りなき時は、人を敬ふ。心に誤りなき時は、人を畏れず。心に邪見なき時は、人を育つる。心に貪りなき時は、人に諂ふことなし。心に怒りなき時は、言葉和らかなり。心に堪忍ある時は、事を調ふ。心に曇りなき時は、心靜なり。心に勇ある時は、悔むことなし。心賤しからざる時は、願ひ好まず。心に孝行ある時は、忠節厚し。心に自慢なき時は、人の善を知り、心に迷ひなき時は人を咎めず。 ○輝虎、生年十四歳より弓箭を執て、三十六年北陸、東山、東海の諸道に威を振ひ、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛驒、上野、(註:半國除)陸奧二郡、出羽五郡、常陸三郡の國々を討ち隨へ、當時織田信長が將軍家を蔑如すると聞て、大に憤り、去らば信長を退治して異見をも申さんとて、天正六年三月、越後の雪の消るを待ち、都に討て上らんとて、既に諸國に軍勢を催促す。此年二月の半より何にとなく違例して、同き三月十三日終に空しくなりにけり。辭世の和歌を詠ず。「極樂も地獄も先きは有明の月ぞ心に掛る雲なき、」
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 上杉輝虎の来襲と籠城の策○永祿四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸將士を會して曰く、輝虎、憲政の爲めに當春大軍を率し、當家を斃し關東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血氣盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短氣なる勇將なれども、少し時過ぐれば、其勇氣醒めて萬事思慮する樣なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸將を下に付けぬれば、一入强みを出すべし、去れば原野に出合ての戰は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覺悟尤もなり、持分の城、餘多の内構淺間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一將を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、兩月と當表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に緣り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸將士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滯陣に勇氣疲れ、荒大將に揉まれて退屈の體に見えける所へ、小田原より忍々に人數を出し、田島、曾我山より夜々忍を入れて敵の小屋を燒拂ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ參詣の時、成田下總守長泰を恥しめし事により、總軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、數百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて歸國せり。