名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 十七歳の使番の弁明
○輝虎、嘗て使番不足なればとて、神保主殿十七歳なるを使番にす。然る所相役の者共一同し、御使番の事は御吟味の上仰付らるゝことゝ存ぜし所、東西も知らざる者を同役に仕ること、存も寄らず候と申ければ、輝虎之を聞き、何れもを呼出して曰く、内々申渡べくと存ぜし所、先達て其方共より申聞けること、家の弓箭盛なる故、吟味深し、大悦に存ずるなり。其方共申如く、使番の者は某が眼目片腕とも思ふ程の者ならでは申付難きを以て、隨分吟味穿鑿する故、前廉より、汝等を申付る、此度長尾甚左衞門跡役を吟味するに、武役を勤し者の内にありてこそすらめ、汝等と同役とすべきと存ずる者、結句五度七度首尾を合はせたる若者を申付なば、何れも相役に不似合とて、腹立あるべきと思ひ、一向批判なき悴主殿を某眼力にて申付しなり。汝等鳥飼は、後々は必ず仕損ず間敷と思ひ申付たりとありしかば、何れも箇樣の思召とは存ぜず中々忝く存候、隨分鳥飼申べくと言へり。輝虎眼力の如く、明る十一年四月、加賀尾山の城攻に比類なき働せり。輝虎感狀を與へて之を賞せり。 ○輝虎、戸隱山に登り、晴信が輝虎を咒詛する自筆の書を見て、打笑ひ、弓箭執る身の恥なり、末代の寶物にせよと神職に言はれけり。
新字:○輝虎、嘗て使番不足なればとて、神保主殿十七歳なるを使番にす。然る所相役の者共一同し、御使番の事は御吟味の上仰付らるゝことゝ存ぜし所、東西も知らざる者を同役に仕ること、存も寄らず候と申ければ、輝虎之を聞き、何れもを呼出して曰く、内々申渡べくと存ぜし所、先達て其方共より申聞けること、家の弓箭盛なる故、吟味深し、大悦に存ずるなり。其方共申如く、使番の者は某が眼目片腕とも思ふ程の者ならでは申付難きを以て、随分吟味穿鑿する故、前廉より、汝等を申付る、此度長尾甚左衛門跡役を吟味するに、武役を勤し者の内にありてこそすらめ、汝等と同役とすべきと存ずる者、結句五度七度首尾を合はせたる若者を申付なば、何れも相役に不似合とて、腹立あるべきと思ひ、一向批判なき悴主殿を某眼力にて申付しなり。汝等鳥飼は、後々は必ず仕損ず間敷と思ひ申付たりとありしかば、何れも箇様の思召とは存ぜず中々忝く存候、随分鳥飼申べくと言へり。輝虎眼力の如く、明る十一年四月、加賀尾山の城攻に比類なき働せり。輝虎感状を与へて之を賞せり。 ○輝虎、戸隠山に登り、晴信が輝虎を咒詛する自筆の書を見て、打笑ひ、弓箭執る身の恥なり、末代の宝物にせよと神職に言はれけり。
書き下し
○輝虎、嘗て使番不足なればとて、神保主殿十七歳なるを使番にす。然る所相役の者共一同し、御使番の事は御吟味の上仰付らるゝことゝ存ぜし所、東西も知らざる者を同役に仕ること、存も寄らず候と申ければ、輝虎之を聞き、何れもを呼出して曰く、内々申渡べくと存ぜし所、先達て其方共より申聞けること、家の弓箭盛なる故、吟味深し、大悦に存ずるなり。其方共申如く、使番の者は某が眼目片腕とも思ふ程の者ならでは申付難きを以て、隨分吟味穿鑿する故、前廉より、汝等を申付る、此度長尾甚左衞門跡役を吟味するに、武役を勤し者の内にありてこそすらめ、汝等と同役とすべきと存ずる者、結句五度七度首尾を合はせたる若者を申付なば、何れも相役に不似合とて、腹立あるべきと思ひ、一向批判なき悴主殿を某眼力にて申付しなり。汝等鳥飼は、後々は必ず仕損ず間敷と思ひ申付たりとありしかば、何れも箇樣の思召とは存ぜず中々忝く存候、隨分鳥飼申べくと言へり。輝虎眼力の如く、明る十一年四月、加賀尾山の城攻に比類なき働せり。輝虎感狀を與へて之を賞せり。 ○輝虎、戸隱山に登り、晴信が輝虎を咒詛する自筆の書を見て、打笑ひ、弓箭執る身の恥なり、末代の寶物にせよと神職に言はれけり。
現代語訳
輝虎は、かつて使番が不足していたので、神保主殿の十七歳の者を使番にしました。すると同役の者たちが一同で、「使番の件はご吟味の上で仰せ付けられることと存じていましたのに、右も左も知らない者を同役にされるとは、思いもよりません」と申しました。輝虎はこれを聞いて、みなを呼び出して言いました。「内々で申し渡そうと思っていたところ、先だってお前たちから申し聞かせがあった。家の弓矢が盛んなので吟味が深いのだ、大いに喜ばしく思う。お前たちの言うとおり、使番の者は私の眼目、片腕とも思うほどの者でなければ申し付けがたいので、念入りに吟味詮索するために、以前からお前たちを申し付けているのだ。今度、長尾甚左衛門の跡役を吟味するに、武役を勤めた者の中にはいる。しかしお前たちと同役とすべきと思う者として、五度、七度と首尾を合わせた若者を申し付ければ、いずれも相役にふさわしくないと腹を立てるだろうと思い、まったく批評のない悴の主殿を、私の眼力で申し付けたのだ。お前たちが鷹を飼い育てるように導けば、後々は必ず仕損じないと思って申し付けた」と。皆は「そのようなお考えとは存じませんでした。まことにかたじけなく存じます。念入りに育てます」と言いました。輝虎の眼力のとおり、翌十一年四月、加賀の尾山城攻めで比類のない働きをしました。輝虎は感状を与えてこれを賞しました。 輝虎は、戸隠山に登り、晴信が輝虎を呪う自筆の書を見て、打ち笑い、「弓矢を取る身の恥である。末代の宝物にせよ」と神職に言われました。
解説

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