名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 退き口を見抜く眼
○此役、輝虎、武田、北條の陣前を打通り、私市を屠り歸る時、武田の陣に押太鼓を打て進み來る體なり。我兵之を見て、物具堅め馳向はんとす。輝虎令して曰く、此敵進み來るにあらず、退去るなり、聊か驚くべからず、甲冑を脱ぎ馬の鞍を卸し、人馬共に心靜に休息すべしと。其如く五六町進み來て、果して退き去りぬ。人皆之を怪む。輝虎聞て是れ怪むに足らず、眼前に私市の城を攻め落さるゝを見て後卷すること能はず、能るに今何ぞ進み來らんや、是は則ち退口の懸色と言ふものなり、汝等之を辨察せざらんやと言はれけり。 ○輝虎、既に私市を屠り厩橋に至り、長尾彈正謙忠、四ケ條の罪あるを以て、之を手刄す。謙忠家中の妻子共は、兼ねて城外に出し置きし故、悉く尋問し、分々に隨て金銀米錢を賜はる。其中に謙忠が幼子十二三歳なりしが、母と共に近鄕に在り、是は謙忠が子なれば誅せらるべきやと申す。輝虎聞て、何條去ることあるべきや、其子成人して、予を狙ひ、父が怨を報ゆるも、報ゆる能ばざるも、夫は其者と予が天運に在らん、十二三歳の者なれば、父に黨して逆心あるべからずと言て、是も同く金子を賜はりて、飢寒の憂を免かれさせけり。此恩にや感じけん、景勝の時、彼兄弟右馬助、右京亮と呼ばれ、加賀國市橋の城にて忠死せり。
新字:○此役、輝虎、武田、北条の陣前を打通り、私市を屠り帰る時、武田の陣に押太鼓を打て進み来る体なり。我兵之を見て、物具堅め馳向はんとす。輝虎令して曰く、此敵進み来るにあらず、退去るなり、聊か驚くべからず、甲冑を脱ぎ馬の鞍を卸し、人馬共に心静に休息すべしと。其如く五六町進み来て、果して退き去りぬ。人皆之を怪む。輝虎聞て是れ怪むに足らず、眼前に私市の城を攻め落さるゝを見て後巻すること能はず、能るに今何ぞ進み来らんや、是は則ち退口の懸色と言ふものなり、汝等之を弁察せざらんやと言はれけり。 ○輝虎、既に私市を屠り厩橋に至り、長尾弾正謙忠、四ケ条の罪あるを以て、之を手刄す。謙忠家中の妻子共は、兼ねて城外に出し置きし故、悉く尋問し、分々に随て金銀米銭を賜はる。其中に謙忠が幼子十二三歳なりしが、母と共に近郷に在り、是は謙忠が子なれば誅せらるべきやと申す。輝虎聞て、何条去ることあるべきや、其子成人して、予を狙ひ、父が怨を報ゆるも、報ゆる能ばざるも、夫は其者と予が天運に在らん、十二三歳の者なれば、父に党して逆心あるべからずと言て、是も同く金子を賜はりて、飢寒の憂を免かれさせけり。此恩にや感じけん、景勝の時、彼兄弟右馬助、右京亮と呼ばれ、加賀国市橋の城にて忠死せり。
書き下し
○此役、輝虎、武田、北條の陣前を打通り、私市を屠り歸る時、武田の陣に押太鼓を打て進み來る體なり。我兵之を見て、物具堅め馳向はんとす。輝虎令して曰く、此敵進み來るにあらず、退去るなり、聊か驚くべからず、甲冑を脱ぎ馬の鞍を卸し、人馬共に心靜に休息すべしと。其如く五六町進み來て、果して退き去りぬ。人皆之を怪む。輝虎聞て是れ怪むに足らず、眼前に私市の城を攻め落さるゝを見て後卷すること能はず、能るに今何ぞ進み來らんや、是は則ち退口の懸色と言ふものなり、汝等之を辨察せざらんやと言はれけり。 ○輝虎、既に私市を屠り厩橋に至り、長尾彈正謙忠、四ケ條の罪あるを以て、之を手刄す。謙忠家中の妻子共は、兼ねて城外に出し置きし故、悉く尋問し、分々に隨て金銀米錢を賜はる。其中に謙忠が幼子十二三歳なりしが、母と共に近鄕に在り、是は謙忠が子なれば誅せらるべきやと申す。輝虎聞て、何條去ることあるべきや、其子成人して、予を狙ひ、父が怨を報ゆるも、報ゆる能ばざるも、夫は其者と予が天運に在らん、十二三歳の者なれば、父に黨して逆心あるべからずと言て、是も同く金子を賜はりて、飢寒の憂を免かれさせけり。此恩にや感じけん、景勝の時、彼兄弟右馬助、右京亮と呼ばれ、加賀國市橋の城にて忠死せり。
現代語訳
この役で、輝虎は武田・北条の陣前を打ち通り、私市を攻め落として帰るとき、武田の陣が押し太鼓を打って進んで来る様子でした。自軍の兵はこれを見て、武具を固めて駆け向かおうとします。輝虎は命じて言いました。「この敵は進んで来るのではない、退き去るのだ。少しも驚くな。甲冑を脱ぎ、馬の鞍を下ろし、人も馬も心静かに休息せよ」と。その言葉のとおり、五、六町進んで来て、はたして退き去りました。人々は皆これを怪しみました。輝虎は聞いて言いました。「怪しむにはあたらない。眼前に私市の城が攻め落とされるのを見て後詰めができなかったのに、どうして今になって進んで来ようか。これは退き口の懸け色というものだ。お前たちはこれを見分けられないのか」。 輝虎は私市を攻め落としたのち、厩橋に至り、長尾弾正謙忠に四か条の罪があるとして、自ら手にかけて斬りました。謙忠の家中の妻子たちは、あらかじめ城外に出してあったので、すべて尋問して、身分に応じて金銀・米・銭を賜りました。その中に、謙忠の幼い子で十二、三歳の者が、母とともに近郷にいました。「これは謙忠の子なので誅せられるでしょうか」と申し出る者があります。輝虎は聞いて、「どうしてそんなことがあろうか。その子が成人して私を狙い、父の怨みを報いようとして、報いることができてもできなくても、それはその者と私の天運による。十二、三歳の者なら、父に味方して逆心を抱くはずもない」と言って、これにも同じく金子を賜り、飢えや寒さの憂いを免れさせました。この恩に感じたのでしょうか、景勝の代に、その兄弟は右馬助、右京亮と呼ばれ、加賀国市橋の城で忠義の死を遂げました。
解説

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