名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 信玄の死を悼む
○北條氏康、以爲く、武田晴信、織田信長は表裏反覆にして賴むに足らず、獨輝虎のみ受合たる上は骨になるまでも、義理を違へざるものなれば、輝虎の肌着を分けて、若き武將の守袋にさせ度思ふなり。我等明日にも相果てなば、後賴むべきは輝虎なりと言て、太田資正に倚り、終に和睦し、季子三郎を春日山に送り、以來氏政をも御引廻し偏に賴み奉るとのことなりけり。 ○元龜三年四月、輝虎、晴信の三河に出るを聞き、信濃に入り、火を長沼に縱ち、遙に德川氏の聲援を爲せり。時に晴信の庶子勝頼、見兵八百を以て出て拒む。輝虎歎じて、勝頼寡兵を以て我に當らんと欲す、實に信玄の兒に愧ぢず、吾其勇を成すなりと言て、兵を引て還れり。世人之を多とす。 ○天正元年四月、晴信卒。此事殊の外隱密故、輝虎知らずして居たりし所に、北條氏政より山中兵部を使として申越せり。其時輝虎、春日山水門に居て、機嫌能く湯漬を食して居たりし所に、信玄死去の由、本庄淸七披露す。輝虎其儘箸を捨て、口なる湯漬を吐き出し、偖も偖も殘念のことなり、名大將を殺したり、英雄人傑とは、此信玄をこそ言はめ、關東の弓箭柱なくなり惜きことなりと言て、涙をばら/\と流し、偖三日の間音樂を禁ぜしとぞ。
新字:○北条氏康、以為く、武田晴信、織田信長は表裏反覆にして頼むに足らず、独輝虎のみ受合たる上は骨になるまでも、義理を違へざるものなれば、輝虎の肌着を分けて、若き武将の守袋にさせ度思ふなり。我等明日にも相果てなば、後頼むべきは輝虎なりと言て、太田資正に倚り、終に和睦し、季子三郎を春日山に送り、以来氏政をも御引廻し偏に頼み奉るとのことなりけり。 ○元亀三年四月、輝虎、晴信の三河に出るを聞き、信濃に入り、火を長沼に縦ち、遥に徳川氏の声援を為せり。時に晴信の庶子勝頼、見兵八百を以て出て拒む。輝虎嘆じて、勝頼寡兵を以て我に当らんと欲す、実に信玄の児に愧ぢず、吾其勇を成すなりと言て、兵を引て還れり。世人之を多とす。 ○天正元年四月、晴信卒。此事殊の外隠密故、輝虎知らずして居たりし所に、北条氏政より山中兵部を使として申越せり。其時輝虎、春日山水門に居て、機嫌能く湯漬を食して居たりし所に、信玄死去の由、本庄清七披露す。輝虎其儘箸を捨て、口なる湯漬を吐き出し、偖も偖も残念のことなり、名大将を殺したり、英雄人傑とは、此信玄をこそ言はめ、関東の弓箭柱なくなり惜きことなりと言て、涙をばら/\と流し、偖三日の間音楽を禁ぜしとぞ。
書き下し
○北條氏康、以爲く、武田晴信、織田信長は表裏反覆にして賴むに足らず、獨輝虎のみ受合たる上は骨になるまでも、義理を違へざるものなれば、輝虎の肌着を分けて、若き武將の守袋にさせ度思ふなり。我等明日にも相果てなば、後賴むべきは輝虎なりと言て、太田資正に倚り、終に和睦し、季子三郎を春日山に送り、以來氏政をも御引廻し偏に賴み奉るとのことなりけり。 ○元龜三年四月、輝虎、晴信の三河に出るを聞き、信濃に入り、火を長沼に縱ち、遙に德川氏の聲援を爲せり。時に晴信の庶子勝頼、見兵八百を以て出て拒む。輝虎歎じて、勝頼寡兵を以て我に當らんと欲す、實に信玄の兒に愧ぢず、吾其勇を成すなりと言て、兵を引て還れり。世人之を多とす。 ○天正元年四月、晴信卒。此事殊の外隱密故、輝虎知らずして居たりし所に、北條氏政より山中兵部を使として申越せり。其時輝虎、春日山水門に居て、機嫌能く湯漬を食して居たりし所に、信玄死去の由、本庄淸七披露す。輝虎其儘箸を捨て、口なる湯漬を吐き出し、偖も偖も殘念のことなり、名大將を殺したり、英雄人傑とは、此信玄をこそ言はめ、關東の弓箭柱なくなり惜きことなりと言て、涙をばら/\と流し、偖三日の間音樂を禁ぜしとぞ。
現代語訳
北条氏康は、こう考えました。「武田晴信も織田信長も表裏反覆で頼むに足りない。ただ輝虎だけは、引き受けたからには骨になるまでも義理を違えない者である。輝虎の肌着を分けてもらい、若い武将の守り袋にさせたいと思う。私が明日にも亡くなれば、後を頼むべきは輝虎だ」と言って、太田資正を通じてついに和睦し、末子の三郎を春日山に送り、「今後は氏政をもお引き回しくださるよう、ひとえにお頼み申す」とのことでした。 元亀三年四月、輝虎は、晴信が三河に出ると聞き、信濃に入って、長沼に火を放ち、遠く徳川氏の声援をしました。そのとき晴信の庶子勝頼が、現有兵八百で出て防ぎました。輝虎は感嘆して言いました。「勝頼は寡兵で私に当たろうとする。まことに信玄の子として恥じない。私はその勇を成就させてやろう」と。そう言って兵を引いて帰りました。世の人はこれを称賛しました。 天正元年四月、晴信が亡くなりました。この事はことのほか秘密にされていたので、輝虎は知らずにおりましたが、北条氏政から山中兵部を使者として申し越しました。そのとき輝虎は、春日山の水門にいて、機嫌よく湯漬けを食べていましたが、信玄死去の由を、本庄清七が披露しました。輝虎はそのまま箸を捨て、口の中の湯漬けを吐き出し、「なんとも残念なことだ、名大将を死なせた。英雄人傑とは、この信玄こそ言うべきだ。関東の弓矢の柱がなくなった、惜しいことだ」と言って、涙をはらはらと流し、三日の間、音楽を禁じたと伝わります。
解説

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