名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 鬨の声と塩の送り
○十年十月、北條氏康、武田晴信と五萬六千餘騎を以て、輝虎を厩橋に圍む。我兵打て出んと勇みけるを、輝虎堅く制して曰く、今敵の情察し難し、若し伏兵の設け之あらば、味方却て軍利を失ふべし、只城中一同に鬨の聲を揚げ、貝を吹き鐘を鳴らし、押太鼓を打て、只今追慕うて出るが如くの勢を爲すべし、然る時は大軍驚き騷て、利根川の渡りに臨まば、河水に溺死する者あらん、是誠に戰はずして敵を屈するの術なりと。果して寄手驚き、敵追ふことゝ思ひし時、土風烈く吹きて目口を開くこと能はざれば、彌と後を顧ること能はず、果して河中に溺死せし者多し。 ○今川氏眞、北條氏康と約し、武田の分國へ鹽を入るゝを禁ず。甲斐、信濃、上野の民大に難儀せり。輝虎之を聞き、晴信に書を贈て曰く、近國の諸將貴方へ鹽を入るゝを留め候由、承はり候、近比卑怪の擧動と存候。弓箭を執て爭ふこと能はざる故と存ずるなり。某に於ては、只幾度も運を天に任せ、勝敗を一戰の上に決せんとこそ存じ候へ、鹽の儀は何程にても某が領國より相送り申べし。其御國より手形を以て入用次第に取らせらるべし、若し高直に於ては、重ねて仰せ聞けらるべし、急度申付候はんとなり。晴信を始め、老臣等、輝虎の武道の正義に感じ、味方に欲しき名將哉とぞ申ける。越後より信濃へは、河中島通り、上野へは猿ケ京通り鹽を運漕せしこと莫大なりとぞ。
新字:○十年十月、北条氏康、武田晴信と五万六千余騎を以て、輝虎を厩橋に囲む。我兵打て出んと勇みけるを、輝虎堅く制して曰く、今敵の情察し難し、若し伏兵の設け之あらば、味方却て軍利を失ふべし、只城中一同に鬨の声を揚げ、貝を吹き鐘を鳴らし、押太鼓を打て、只今追慕うて出るが如くの勢を為すべし、然る時は大軍驚き騷て、利根川の渡りに臨まば、河水に溺死する者あらん、是誠に戦はずして敵を屈するの術なりと。果して寄手驚き、敵追ふことゝ思ひし時、土風烈く吹きて目口を開くこと能はざれば、弥と後を顧ること能はず、果して河中に溺死せし者多し。 ○今川氏真、北条氏康と約し、武田の分国へ塩を入るゝを禁ず。甲斐、信濃、上野の民大に難儀せり。輝虎之を聞き、晴信に書を贈て曰く、近国の諸将貴方へ塩を入るゝを留め候由、承はり候、近比卑怪の挙動と存候。弓箭を執て争ふこと能はざる故と存ずるなり。某に於ては、只幾度も運を天に任せ、勝敗を一戦の上に決せんとこそ存じ候へ、塩の儀は何程にても某が領国より相送り申べし。其御国より手形を以て入用次第に取らせらるべし、若し高直に於ては、重ねて仰せ聞けらるべし、急度申付候はんとなり。晴信を始め、老臣等、輝虎の武道の正義に感じ、味方に欲しき名将哉とぞ申ける。越後より信濃へは、河中島通り、上野へは猿ケ京通り塩を運漕せしこと莫大なりとぞ。
書き下し
○十年十月、北條氏康、武田晴信と五萬六千餘騎を以て、輝虎を厩橋に圍む。我兵打て出んと勇みけるを、輝虎堅く制して曰く、今敵の情察し難し、若し伏兵の設け之あらば、味方却て軍利を失ふべし、只城中一同に鬨の聲を揚げ、貝を吹き鐘を鳴らし、押太鼓を打て、只今追慕うて出るが如くの勢を爲すべし、然る時は大軍驚き騷て、利根川の渡りに臨まば、河水に溺死する者あらん、是誠に戰はずして敵を屈するの術なりと。果して寄手驚き、敵追ふことゝ思ひし時、土風烈く吹きて目口を開くこと能はざれば、彌と後を顧ること能はず、果して河中に溺死せし者多し。 ○今川氏眞、北條氏康と約し、武田の分國へ鹽を入るゝを禁ず。甲斐、信濃、上野の民大に難儀せり。輝虎之を聞き、晴信に書を贈て曰く、近國の諸將貴方へ鹽を入るゝを留め候由、承はり候、近比卑怪の擧動と存候。弓箭を執て爭ふこと能はざる故と存ずるなり。某に於ては、只幾度も運を天に任せ、勝敗を一戰の上に決せんとこそ存じ候へ、鹽の儀は何程にても某が領國より相送り申べし。其御國より手形を以て入用次第に取らせらるべし、若し高直に於ては、重ねて仰せ聞けらるべし、急度申付候はんとなり。晴信を始め、老臣等、輝虎の武道の正義に感じ、味方に欲しき名將哉とぞ申ける。越後より信濃へは、河中島通り、上野へは猿ケ京通り鹽を運漕せしこと莫大なりとぞ。
現代語訳
十年十月、北条氏康は武田晴信とともに五万六千余騎で、輝虎を厩橋に囲みました。味方の兵が打って出ようと勇むのを、輝虎は固く制して言いました。「今は敵の情が察しがたい。もし伏兵が設けてあれば、味方はかえって軍の利を失う。ただ城中一同で鬨の声を上げ、貝を吹き、鐘を鳴らし、押し太鼓を打って、ただいま追い慕って出るかのような勢いを見せよ。そうすれば大軍は驚き騒ぎ、利根川の渡りに臨んだとき、川の水に溺れ死ぬ者もあろう。これこそ戦わずして敵を屈する術である」と。はたして寄せ手は驚き、敵が追ってくると思いました。そのとき土風が激しく吹いて目も口も開けることができず、いよいよ後ろを顧みることもできず、はたして川の中で溺れ死ぬ者が多くありました。 今川氏真は北条氏康と約束して、武田の分国へ塩を入れることを禁じました。甲斐・信濃・上野の民は大いに難儀しました。輝虎はこれを聞き、晴信に書を贈って言いました。「近国の諸将が貴方へ塩を入れることを止めたと承りました。近ごろ卑怯な振る舞いと存じます。弓矢を取って争うことができないためと存じます。私においては、ただ幾度でも運を天に任せ、勝敗を一戦の上に決しようと存じます。塩のことは、どれほどでも私の領国から送りましょう。そちらの国から手形によって、入用に応じてお取りください。もし値が高ければ、重ねて仰せ聞かせください。きっと申し付けましょう」とのことでした。晴信をはじめ老臣らは、輝虎の武道の正義に感じ、「味方にほしい名将だ」と言いました。越後から信濃へは川中島を通り、上野へは猿ヶ京を通って、塩を運び送ることが莫大であったと伝わります。
解説

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