名将言行録 / 『名将言行録』北條氏康 上杉輝虎の来襲と籠城の策
○永祿四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸將士を會して曰く、輝虎、憲政の爲めに當春大軍を率し、當家を斃し關東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血氣盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短氣なる勇將なれども、少し時過ぐれば、其勇氣醒めて萬事思慮する樣なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸將を下に付けぬれば、一入强みを出すべし、去れば原野に出合ての戰は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覺悟尤もなり、持分の城、餘多の内構淺間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一將を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、兩月と當表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に緣り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸將士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滯陣に勇氣疲れ、荒大將に揉まれて退屈の體に見えける所へ、小田原より忍々に人數を出し、田島、曾我山より夜々忍を入れて敵の小屋を燒拂ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ參詣の時、成田下總守長泰を恥しめし事により、總軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、數百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて歸國せり。
新字:○永禄四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸将士を会して曰く、輝虎、憲政の為めに当春大軍を率し、当家を斃し関東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血気盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短気なる勇将なれども、少し時過ぐれば、其勇気醒めて万事思慮する様なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸将を下に付けぬれば、一入強みを出すべし、去れば原野に出合ての戦は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覚悟尤もなり、持分の城、余多の内構浅間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一将を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、両月と当表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に縁り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸将士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滞陣に勇気疲れ、荒大将に揉まれて退屈の体に見えける所へ、小田原より忍々に人数を出し、田島、曽我山より夜々忍を入れて敵の小屋を焼払ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ参詣の時、成田下総守長泰を恥しめし事により、総軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、数百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて帰国せり。
書き下し
○永祿四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸將士を會して曰く、輝虎、憲政の爲めに當春大軍を率し、當家を斃し關東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血氣盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短氣なる勇將なれども、少し時過ぐれば、其勇氣醒めて萬事思慮する樣なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸將を下に付けぬれば、一入强みを出すべし、去れば原野に出合ての戰は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覺悟尤もなり、持分の城、餘多の内構淺間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一將を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、兩月と當表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に緣り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸將士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滯陣に勇氣疲れ、荒大將に揉まれて退屈の體に見えける所へ、小田原より忍々に人數を出し、田島、曾我山より夜々忍を入れて敵の小屋を燒拂ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ參詣の時、成田下總守長泰を恥しめし事により、總軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、數百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて歸國せり。
現代語訳
永禄四年、上杉輝虎が大軍を率いて、小田原に攻め入ろうとしました。氏康はこれを聞いて諸将士を集めて言いました。「輝虎は、憲政のために当春、大軍を率いて、当家を倒して関東を治めようとしていると聞き及んでいる。そもそも輝虎は、天性たくましい若者で、血気盛んで怒りやすく、火の中へも飛び入り、鬼であっても組み伏せようとするほどの短気な勇将であるが、少し時が過ぎれば、その勇気も醒めて万事思慮するようになると聞く。ことに今度は憲政から管領を譲られて、諸将を下に付けたので、いっそう強みを出すだろう。だから野原に出ての合戦はよくない。そのうえ太田資正が謀を巡らし、大石、小幡、白倉らが先陣をするとの風聞があるので、きっと大軍だろう。要害の備えを増し、籠城の覚悟が最もよい。持ち分の城のうち、構えの浅いものは取り壊し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根などには、それぞれ一将を加えよ。輝虎は前後に大敵があり、二か月とこの地で手間を費やすことはあるまい。しかも上野のことは、小田原から郡代を置いたわけでもなく、輝虎が支配するとしても、世間の聞こえに何の苦しいことがあろうか。輝虎は一時の情を張る男で、憲政に頼まれた体面までのことをするのだから、平井さえ彼に支配させておけば、一つの益があると思うべきだ。そうであれば、場合により敵との縁によって、あるいは怒らせてよいこともあり、またわざと敵に一つの面目を与えて無事を保ってよいこともある」と、詳しく評論したので、諸将士はみなその見識に服しました。三月、はたして輝虎は蓮沼まで攻め入りましたが、我が兵が出合わないので、仕方なく、軍兵たちは長途の滞陣で勇気が疲れ、荒大将に揉まれて退屈の様子に見えたところへ、小田原から忍び忍びに人数を出し、田島、曾我山から夜な夜な忍び入って敵の小屋を焼き払い、そのうえ小荷駄を奪い取りましたので、案のとおり、五十日にも及ばないうちに、糧食に差し支え、これによってかなわないと思ったのか、小田原を引き退き、鶴岡八幡へ参詣のとき、成田下総守長泰を辱めたことにより、総軍が瓦解に及んだところに、我が兵が後を慕って数百騎を討ち取り、輜重を奪ったので、輝虎はようやくのことで帰国しました。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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