名将言行録 / 『名将言行録』武田晴信 凶日を逆手にとる
○晴信、長時と、桔梗原に相戰ふ。日暮に及びければ、兩陣引退きて、陣を結ぶ。明日は先負の凶日なり、晴信、長時は定めて晴信も是を忌み、掛るべからずと思ひ、怠あらんことを察し、不意を擊て、大勝を得たり。 ○弘治二年八月、晴信上杉輝虎と對陣の時、晴信の斥候馳歸り、今度輝虎には長陣と相見え候と言ふ。晴信何を以て長陣と見たると問へば、輝虎の陣に夥しく薪積置候と答ふ。晴信聞て、即刻使番を以て、輝虎が陣に火事あるべし、其時此方より一人も出づべからず、若し相背くに於ては、其者一類まで曲事たるべくと觸させたり。偖二十四日晩方になり、案の如く輝虎の陣に火事出來たり。晴信井樓に上り、遠見せし所、火事も鎭まりければ、越後勢五六千程、草の中より弓銃鎗刀を持て出でたり。人皆晴信の明察に服せり。 ○永祿元年五月、甲越和睦の時、輝虎、晴信の馬より下りざるを憤り、犀川雪水大に出たるに無理に馬を乘り入れ、餘多能き侍を水にて殺し、輝虎も馬を乘放ち、流れたる大木に取付き、漸くに陸へ上れり。晴信之を聞き、輝虎弓箭には類ひなけれども、分別なし、其故は雪水出たる大河へ乘込む程ならば、そこにて死したるこそ尤なれ、馬を乘放し、上る程ならば、出たる河をば待て、水の落たる時渡て然るべきことなり、輝虎猛き武士故、我披官にも猛く見られんとの儀にてもあるべし、入らざる強みは、國を持者のせざる所なりと言はれたり。
新字:○晴信、長時と、桔梗原に相戦ふ。日暮に及びければ、両陣引退きて、陣を結ぶ。明日は先負の凶日なり、晴信、長時は定めて晴信も是を忌み、掛るべからずと思ひ、怠あらんことを察し、不意を撃て、大勝を得たり。 ○弘治二年八月、晴信上杉輝虎と対陣の時、晴信の斥候馳帰り、今度輝虎には長陣と相見え候と言ふ。晴信何を以て長陣と見たると問へば、輝虎の陣に夥しく薪積置候と答ふ。晴信聞て、即刻使番を以て、輝虎が陣に火事あるべし、其時此方より一人も出づべからず、若し相背くに於ては、其者一類まで曲事たるべくと触させたり。偖二十四日晩方になり、案の如く輝虎の陣に火事出来たり。晴信井楼に上り、遠見せし所、火事も鎮まりければ、越後勢五六千程、草の中より弓銃鎗刀を持て出でたり。人皆晴信の明察に服せり。 ○永禄元年五月、甲越和睦の時、輝虎、晴信の馬より下りざるを憤り、犀川雪水大に出たるに無理に馬を乗り入れ、余多能き侍を水にて殺し、輝虎も馬を乗放ち、流れたる大木に取付き、漸くに陸へ上れり。晴信之を聞き、輝虎弓箭には類ひなけれども、分別なし、其故は雪水出たる大河へ乗込む程ならば、そこにて死したるこそ尤なれ、馬を乗放し、上る程ならば、出たる河をば待て、水の落たる時渡て然るべきことなり、輝虎猛き武士故、我披官にも猛く見られんとの儀にてもあるべし、入らざる強みは、国を持者のせざる所なりと言はれたり。
書き下し
○晴信、長時と、桔梗原に相戰ふ。日暮に及びければ、兩陣引退きて、陣を結ぶ。明日は先負の凶日なり、晴信、長時は定めて晴信も是を忌み、掛るべからずと思ひ、怠あらんことを察し、不意を擊て、大勝を得たり。 ○弘治二年八月、晴信上杉輝虎と對陣の時、晴信の斥候馳歸り、今度輝虎には長陣と相見え候と言ふ。晴信何を以て長陣と見たると問へば、輝虎の陣に夥しく薪積置候と答ふ。晴信聞て、即刻使番を以て、輝虎が陣に火事あるべし、其時此方より一人も出づべからず、若し相背くに於ては、其者一類まで曲事たるべくと觸させたり。偖二十四日晩方になり、案の如く輝虎の陣に火事出來たり。晴信井樓に上り、遠見せし所、火事も鎭まりければ、越後勢五六千程、草の中より弓銃鎗刀を持て出でたり。人皆晴信の明察に服せり。 ○永祿元年五月、甲越和睦の時、輝虎、晴信の馬より下りざるを憤り、犀川雪水大に出たるに無理に馬を乘り入れ、餘多能き侍を水にて殺し、輝虎も馬を乘放ち、流れたる大木に取付き、漸くに陸へ上れり。晴信之を聞き、輝虎弓箭には類ひなけれども、分別なし、其故は雪水出たる大河へ乘込む程ならば、そこにて死したるこそ尤なれ、馬を乘放し、上る程ならば、出たる河をば待て、水の落たる時渡て然るべきことなり、輝虎猛き武士故、我披官にも猛く見られんとの儀にてもあるべし、入らざる強みは、國を持者のせざる所なりと言はれたり。
現代語訳
晴信は長時と桔梗原で戦いました。日暮れになったので、両陣は引き退いて陣を結びました。明日は先負の凶日です。晴信は、長時はきっと晴信もこれを忌んで掛かってくるまいと思い、怠りが出ることを察し、不意を撃って大勝を得ました。 弘治二年八月、晴信が上杉輝虎と対陣していた時、晴信の斥候が馳せ帰り、今度の輝虎は長陣と見えますと言いました。晴信は、何をもって長陣と見たのかと問うと、輝虎の陣におびただしく薪が積み置かれていますと答えました。晴信は聞いて、即刻使番に、輝虎の陣に火事があるだろう、その時こちらから一人も出てはならない、もし背くならば、その者は一族まで処罰するだろう、と触れさせました。さて二十四日の夕方になり、案のとおり輝虎の陣に火事が起こりました。晴信は井楼に上って遠くを見たところ、火事も鎮まり、越後勢五、六千ほどが、草の中から弓、鉄砲、槍、刀を持って出てきました。人々は皆、晴信の明察に服しました。 永禄元年五月、甲越和睦の時、輝虎は、晴信が馬から下りなかったことに憤り、犀川が雪解け水で大いに増水していたのに無理に馬を乗り入れ、あまたのよい侍を水で死なせ、輝虎も馬を放し、流れてきた大木に取り付き、ようやく陸に上がりました。晴信はこれを聞き、輝虎は弓矢には類がないが、分別がない。そのわけは、雪解け水の出た大河へ乗り込むほどならば、そこで死ぬのがもっともである。馬を放して上がるほどならば、出水した河は待って、水が落ちた時に渡るのがよい。輝虎は猛き武士ゆえ、我が家臣にも猛く見られようとの考えでもあるだろう。いらざる強がりは、国を持つ者がしないところである、と言われました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 放れ馬に手を出さぬ○弘治二年八月、輝虎、晴信と對陣の時に、十五日朝晴信馬三疋取放ち、其馬を我陣の方に追來る。我足輕共之を見て、敵の陣より馬放れ來る、いずや取て我物にせんと言ふ。輝虎此時樓に上り、遠見して馬の放れ來るを見て、本莊平七を呼て、只今敵の方より馬放れ此方へ馳來るべし、去れども、其儘捨置候樣に、諸軍勢へ急ぎ觸れ申べし、此方より一人にても出候ば、急度曲事に申付べき旨大音に申付たり。然る所に、馬野山を走り廻る、然れども我陣より足輕一人も出でず。晴信、夜の內に騎馬五十騎、足輕三百人程草伏に隱くし置て、我が陣より馬取りに出なば、討取る術なりしが、一人も出る者なければ、手を空くして引取りたり。晴信、輝虎は偖々功者なる弓執なり。中々謀にては合戰成り難しと言て、翌日晝後に陣拂して歸れり。
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 見えぬものを疑う○晴信、兵を信濃に出せし時、兩道あり、一方の道能き方へ押すべきと思ひけるに、一村茂みあり。此所は鄕人支切るべき地なり、あの村の茂みの中に人やある、見て來れと使番を遣りけるに、使番見切り歸りて、人は居り申さずと言ふ。晴信、聞て其見る所は如何にと尋ねければ大木の松あり、下枝に白鷺數多宿すと申す。晴信其動きを見たるかと尋ぬ。動きは見ずと申す。晴信動きなくば作り物たるべしとて、鷹匠を遣りて鷹を放たせけれども、動かず。鷹は拳に歸る。偖こそ鄕人共集り居ると見えたれとて、此方へ押通れとありて、一方の道へ押させければ、果して右の茂林の中より鄕人出でしとぞ。 ○河中島の役、輝虎名馬の放生月毛を乘捨けるを、長坂頼弘取て乘り、流石の輝虎も馬を捨られ候と言ければ、晴信大に怒り、馬草臥は乘替てこそあるらめ、乘替たる時、合戰負けに成りたらば、中間共捨てゝ逃んに、夫が輝虎弱きとは、一段無穿鑿なる申樣哉と言はれけり。 ○晴信、輝虎と對陣の時、晴信一の手若者、二の手に老功を用ひ、前に川を當て待つ。輝虎之を見て戰はず。是は一の手の若者、二の手の老功に恥て、一入強く戰を勵むべし、二の手の老功、又若手に劣らじと相勵み強みを出すが故なりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 落ち目を攻めない理由○晴信死去の由聞えし時、老臣共此虛に乘じて信濃に御出陣候ひなば、皆御手に入るべしと勸めけれども、輝虎聽かず、若き勝頼の代替を目掛て取らんこと、長氣なき振舞なりとて、出陣せず。又長篠の役後、勸めし者あり。輝虎曰く、今我出陣せば甲斐まで取るべし、然れども人の落目を見て攻め取るは、本意ならぬことなりと言て、終に勝頼の領國に出兵せず。 ○四年、輝虎、加賀松任を屠る。織田信長後援せしが、城陷るを聞て、奔潰す。時に越中神保の押へに置く者を始め、直江、柴田の諸將まで、此勢に乘じ神保を擊んと勸む。輝虎聞て、夫は遠慮なきことなり、武田信玄は六分の勝を、常に全き勝として、七八分には竟にせざる由聞き及びたり。今度は信長五萬餘人の目前にて、松任の要害を一日に乘取り、殊に城主剛強と聞ゆる長筑前守兄弟を打取り、其上に信長方に前方案内を申入、此方より仕掛け追崩したるは、十一分に過ぎたる大勝なり。其上又神保へ働き、越中まで治むること、凡そ十八分と言ふは、是等ならん。天道は滿るを缺くと申ことあれば、先々此度は歸陣尤もなり。信玄ならば、何にとして松任の城を攻落して、大聖寺の陣へ仕掛け申べきや、此分が吾等が信玄に及ばざる所の一つなりと言はれければ、何れも感服して、翌日歸陣せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 信玄の死を悼む○北條氏康、以爲く、武田晴信、織田信長は表裏反覆にして賴むに足らず、獨輝虎のみ受合たる上は骨になるまでも、義理を違へざるものなれば、輝虎の肌着を分けて、若き武將の守袋にさせ度思ふなり。我等明日にも相果てなば、後賴むべきは輝虎なりと言て、太田資正に倚り、終に和睦し、季子三郎を春日山に送り、以來氏政をも御引廻し偏に賴み奉るとのことなりけり。 ○元龜三年四月、輝虎、晴信の三河に出るを聞き、信濃に入り、火を長沼に縱ち、遙に德川氏の聲援を爲せり。時に晴信の庶子勝頼、見兵八百を以て出て拒む。輝虎歎じて、勝頼寡兵を以て我に當らんと欲す、實に信玄の兒に愧ぢず、吾其勇を成すなりと言て、兵を引て還れり。世人之を多とす。 ○天正元年四月、晴信卒。此事殊の外隱密故、輝虎知らずして居たりし所に、北條氏政より山中兵部を使として申越せり。其時輝虎、春日山水門に居て、機嫌能く湯漬を食して居たりし所に、信玄死去の由、本庄淸七披露す。輝虎其儘箸を捨て、口なる湯漬を吐き出し、偖も偖も殘念のことなり、名大將を殺したり、英雄人傑とは、此信玄をこそ言はめ、關東の弓箭柱なくなり惜きことなりと言て、涙をばら/\と流し、偖三日の間音樂を禁ぜしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 上杉輝虎の来襲と籠城の策○永祿四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸將士を會して曰く、輝虎、憲政の爲めに當春大軍を率し、當家を斃し關東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血氣盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短氣なる勇將なれども、少し時過ぐれば、其勇氣醒めて萬事思慮する樣なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸將を下に付けぬれば、一入强みを出すべし、去れば原野に出合ての戰は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覺悟尤もなり、持分の城、餘多の内構淺間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一將を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、兩月と當表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に緣り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸將士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滯陣に勇氣疲れ、荒大將に揉まれて退屈の體に見えける所へ、小田原より忍々に人數を出し、田島、曾我山より夜々忍を入れて敵の小屋を燒拂ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ參詣の時、成田下總守長泰を恥しめし事により、總軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、數百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて歸國せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 主の座を辞して令を通す○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸將相議し、輝虎を立て主と爲さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髮を剃り、謙信と號し、世を遁れ高野山に赴んと言て、關の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸將の愛戴を忝くし水火に赴くとも辭すべからざる所なり、唯不才にて上將の任に當り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸將皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に歸り、明日命を專にする大臣十六人を收め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て國中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戰て敗績し、越後に來て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる樣如何と問ふ。義清、十年以來信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする樣にて少しもせず、勝ての後は戰前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、國を多く取るべきとの、臆見なり。我は國を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戰を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。