名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 茶を三服飲む胆力
○二年二月、北條氏政兵三萬を以て、佐野小太郎昌綱を橡木城に圍み政む。輝虎之を聞き、八千人を引具して、後詰せり。城危しと聞えければ、輝虎曰く後卷は我に劣らぬ侍大將餘多あれば、心易し、佐野が城こそ覺束なけれ。先づ我は城に、駈入て力を副なんとて、物具もせず黑き木綿の胴服を着し、十文字の鎗を橫たへ、僅二十三騎を引具し氏政の陣前を、馬を靜に歩ませて、佐野が城に入りたるを、敵の軍兵見て、夜叉羅刹とは是なるべしと言て、恐れて近付く者なし。氏政圍を解て引退く。輝虎頽て門を開き、追慕へども、氏政一と軍もせで引退きたり。 ○輝虎以爲く、當時戰國の最中なればとて、居ながら朝家の官加階を望み、又弓箭の道に携りて、將軍家に見參せざらんこと、武門の耻辱なりとて、隣國の敵の方へ、一々使を立てゝ此由を告げ、四月雜兵合はせて、僅に二千八百人を引具し、敵の國々打渡り、都に登り、二十七日將軍義輝に謁す。義輝感稱し、關東管領と爲す。五月朔日參内す。天皇劔を賜はり、菊桐の章を用ふるを許さる。 ○四年、輝虎小田原蓮池まで攻入り、池の西端に馬を控へ、辨當を取寄せ、茶を喫する所を、城兵出丸より鳥銃十挺計り連ね、冊間程にて三繰まで打けれども、射向の袖鎧の鼻抔を打て、一毛の隔てにて、身には恙なし。輝虎少しも騷がず長々と茶を三服まで喫し、悠閑無事の體にて居たりければ、左右に侍りける兵士、毛髮を磨して彈丸飛來れども、頭を俯く者なし。城兵之を見て其猛勇を譽めざる者はなかりけり。
新字:○二年二月、北条氏政兵三万を以て、佐野小太郎昌綱を橡木城に囲み政む。輝虎之を聞き、八千人を引具して、後詰せり。城危しと聞えければ、輝虎曰く後巻は我に劣らぬ侍大将余多あれば、心易し、佐野が城こそ覚束なけれ。先づ我は城に、駈入て力を副なんとて、物具もせず黒き木綿の胴服を着し、十文字の鎗を横たへ、僅二十三騎を引具し氏政の陣前を、馬を静に歩ませて、佐野が城に入りたるを、敵の軍兵見て、夜叉羅刹とは是なるべしと言て、恐れて近付く者なし。氏政囲を解て引退く。輝虎頽て門を開き、追慕へども、氏政一と軍もせで引退きたり。 ○輝虎以為く、当時戦国の最中なればとて、居ながら朝家の官加階を望み、又弓箭の道に携りて、将軍家に見参せざらんこと、武門の耻辱なりとて、隣国の敵の方へ、一々使を立てゝ此由を告げ、四月雑兵合はせて、僅に二千八百人を引具し、敵の国々打渡り、都に登り、二十七日将軍義輝に謁す。義輝感称し、関東管領と為す。五月朔日参内す。天皇剣を賜はり、菊桐の章を用ふるを許さる。 ○四年、輝虎小田原蓮池まで攻入り、池の西端に馬を控へ、弁当を取寄せ、茶を喫する所を、城兵出丸より鳥銃十挺計り連ね、冊間程にて三繰まで打けれども、射向の袖鎧の鼻抔を打て、一毛の隔てにて、身には恙なし。輝虎少しも騷がず長々と茶を三服まで喫し、悠閑無事の体にて居たりければ、左右に侍りける兵士、毛髪を磨して弾丸飛来れども、頭を俯く者なし。城兵之を見て其猛勇を誉めざる者はなかりけり。
書き下し
○二年二月、北條氏政兵三萬を以て、佐野小太郎昌綱を橡木城に圍み政む。輝虎之を聞き、八千人を引具して、後詰せり。城危しと聞えければ、輝虎曰く後卷は我に劣らぬ侍大將餘多あれば、心易し、佐野が城こそ覺束なけれ。先づ我は城に、駈入て力を副なんとて、物具もせず黑き木綿の胴服を着し、十文字の鎗を橫たへ、僅二十三騎を引具し氏政の陣前を、馬を靜に歩ませて、佐野が城に入りたるを、敵の軍兵見て、夜叉羅刹とは是なるべしと言て、恐れて近付く者なし。氏政圍を解て引退く。輝虎頽て門を開き、追慕へども、氏政一と軍もせで引退きたり。 ○輝虎以爲く、當時戰國の最中なればとて、居ながら朝家の官加階を望み、又弓箭の道に携りて、將軍家に見參せざらんこと、武門の耻辱なりとて、隣國の敵の方へ、一々使を立てゝ此由を告げ、四月雜兵合はせて、僅に二千八百人を引具し、敵の國々打渡り、都に登り、二十七日將軍義輝に謁す。義輝感稱し、關東管領と爲す。五月朔日參内す。天皇劔を賜はり、菊桐の章を用ふるを許さる。 ○四年、輝虎小田原蓮池まで攻入り、池の西端に馬を控へ、辨當を取寄せ、茶を喫する所を、城兵出丸より鳥銃十挺計り連ね、冊間程にて三繰まで打けれども、射向の袖鎧の鼻抔を打て、一毛の隔てにて、身には恙なし。輝虎少しも騷がず長々と茶を三服まで喫し、悠閑無事の體にて居たりければ、左右に侍りける兵士、毛髮を磨して彈丸飛來れども、頭を俯く者なし。城兵之を見て其猛勇を譽めざる者はなかりけり。
現代語訳
二年二月、北条氏政は兵三万で、佐野小太郎昌綱を橡木城に囲んで攻めました。輝虎はこれを聞き、八千人を率いて後詰めをしました。城が危ういと聞こえたので、輝虎は言いました。「後巻きは私に劣らない侍大将が大勢いるから安心だ。佐野の城こそおぼつかない。まず私は城に駆け入って力を添えよう」と。武具もつけず、黒い木綿の胴服を着て、十文字の鑓を横たえ、わずか二十三騎を引き連れて、氏政の陣前を馬を静かに歩ませて佐野の城に入りました。敵の軍兵はこれを見て、「夜叉羅刹とはこれのことだろう」と言い、恐れて近づく者はありませんでした。氏政は囲みを解いて引き退きました。輝虎はやがて門を開いて追い慕いましたが、氏政は一戦もせずに引き退きました。 輝虎は考えました。「今は戦国の最中だからといって、居ながらにして朝廷の官位昇進を望み、また弓矢の道に携わりながら将軍家に拝謁しないのは、武門の恥辱だ」と。隣国の敵のもとへ一々使者を立ててこのことを告げ、四月、雑兵を合わせてわずか二千八百人を率い、敵の国々を通り抜けて都に上り、二十七日に将軍義輝に謁しました。義輝は感心して称え、関東管領としました。五月一日に参内すると、天皇は剣を賜り、菊と桐の紋を用いることを許されました。 四年、輝虎は小田原の蓮池まで攻め入り、池の西端に馬を控え、弁当を取り寄せて茶を飲んでいたところ、城兵が出丸から鳥銃十挺ほどを連ね、三十間ほどの距離で三度まで撃ちました。袖や鎧の端などに当たりましたが、毛一筋の隔てで、身には障りがありませんでした。輝虎は少しも騒がず、ゆっくり茶を三服まで飲み、のどかで事なきがごとき様子でいたので、左右に侍る兵士は毛髪が逆立つほどでしたが、弾丸が飛んで来ても頭を伏せる者はいませんでした。城兵はこれを見て、その猛勇を誉めない者はありませんでした。
解説

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