名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 子を失った家臣への情
○輝虎の臣廉將監が嫡子甚次郎、不義ある故に死罪を行ひ、父將監が方へ使を遣はし、甚次郞が罪を申聞かせて、父母には憐みを加へしに、將監一旦は君命を畏りて奥に入りたりしが、頓て長刀を持出て使者に立向ひ、謙信公次に其方達に怨みなし、只子を思ふ道に迷て氣が違ひたるぞと、言も敢へず二人の使者を突伏せけるに、近邊の輩馳集り、將監其外働きたる家來を悉く誅戮す。此時手負死人三十人に及びたれども、輝虎更に怒らず、子を失ひて氣の違ひたるも不便なりとて、其妻と娘を厚く扶持せられけり。 ○輝虎、晴信と和平を結びし時、使僧の長遠寺に問て曰く、甲斐の侍に向井與左衞門と云ふ者ありや。之れあると申す。又創の痕ありやと問へば、面に刀の痕ありと言ふ。輝虎曰く、河中島の戰に名乘り掛けて、我を後より突く所を振り顧て、一刀斬りたりしぞかし。よも助からずと思ひしに、生存へたるよなとて、萌黄の胴肩衣に鎗の痕あるを取出し、書簡を副へて向井に賜られけり。之を世に返り感狀と云ふ。其書中に河中島の事を載せたりとぞ。 ○忍にて輝虎、北條氏政と對陣の時、太田資正別心の沙汰ありければ、輝虎只一騎にて急に資正が備へ乘込み、資正が三男安房守資氏、其時十二歳になりしをひしと手を取り、偖々能き生質哉と我子に申請んとて、連れ歸れり。資正は氏政を引付けて、手替りせんと思ふ所に、氏政人數未だ來らざる先きに、輝虎人質を取て歸りし故、すべき樣なくて別心を止めしとぞ。人皆輝虎が急に來りしを感じあへり。
新字:○輝虎の臣廉将監が嫡子甚次郎、不義ある故に死罪を行ひ、父将監が方へ使を遣はし、甚次郎が罪を申聞かせて、父母には憐みを加へしに、将監一旦は君命を畏りて奥に入りたりしが、頓て長刀を持出て使者に立向ひ、謙信公次に其方達に怨みなし、只子を思ふ道に迷て気が違ひたるぞと、言も敢へず二人の使者を突伏せけるに、近辺の輩馳集り、将監其外働きたる家来を悉く誅戮す。此時手負死人三十人に及びたれども、輝虎更に怒らず、子を失ひて気の違ひたるも不便なりとて、其妻と娘を厚く扶持せられけり。 ○輝虎、晴信と和平を結びし時、使僧の長遠寺に問て曰く、甲斐の侍に向井与左衛門と云ふ者ありや。之れあると申す。又創の痕ありやと問へば、面に刀の痕ありと言ふ。輝虎曰く、河中島の戦に名乗り掛けて、我を後より突く所を振り顧て、一刀斬りたりしぞかし。よも助からずと思ひしに、生存へたるよなとて、萌黄の胴肩衣に鎗の痕あるを取出し、書簡を副へて向井に賜られけり。之を世に返り感状と云ふ。其書中に河中島の事を載せたりとぞ。 ○忍にて輝虎、北条氏政と対陣の時、太田資正別心の沙汰ありければ、輝虎只一騎にて急に資正が備へ乗込み、資正が三男安房守資氏、其時十二歳になりしをひしと手を取り、偖々能き生質哉と我子に申請んとて、連れ帰れり。資正は氏政を引付けて、手替りせんと思ふ所に、氏政人数未だ来らざる先きに、輝虎人質を取て帰りし故、すべき様なくて別心を止めしとぞ。人皆輝虎が急に来りしを感じあへり。
書き下し
○輝虎の臣廉將監が嫡子甚次郎、不義ある故に死罪を行ひ、父將監が方へ使を遣はし、甚次郞が罪を申聞かせて、父母には憐みを加へしに、將監一旦は君命を畏りて奥に入りたりしが、頓て長刀を持出て使者に立向ひ、謙信公次に其方達に怨みなし、只子を思ふ道に迷て氣が違ひたるぞと、言も敢へず二人の使者を突伏せけるに、近邊の輩馳集り、將監其外働きたる家來を悉く誅戮す。此時手負死人三十人に及びたれども、輝虎更に怒らず、子を失ひて氣の違ひたるも不便なりとて、其妻と娘を厚く扶持せられけり。 ○輝虎、晴信と和平を結びし時、使僧の長遠寺に問て曰く、甲斐の侍に向井與左衞門と云ふ者ありや。之れあると申す。又創の痕ありやと問へば、面に刀の痕ありと言ふ。輝虎曰く、河中島の戰に名乘り掛けて、我を後より突く所を振り顧て、一刀斬りたりしぞかし。よも助からずと思ひしに、生存へたるよなとて、萌黄の胴肩衣に鎗の痕あるを取出し、書簡を副へて向井に賜られけり。之を世に返り感狀と云ふ。其書中に河中島の事を載せたりとぞ。 ○忍にて輝虎、北條氏政と對陣の時、太田資正別心の沙汰ありければ、輝虎只一騎にて急に資正が備へ乘込み、資正が三男安房守資氏、其時十二歳になりしをひしと手を取り、偖々能き生質哉と我子に申請んとて、連れ歸れり。資正は氏政を引付けて、手替りせんと思ふ所に、氏政人數未だ來らざる先きに、輝虎人質を取て歸りし故、すべき樣なくて別心を止めしとぞ。人皆輝虎が急に來りしを感じあへり。
現代語訳
輝虎の臣である廉将監の嫡子甚次郎が、不義があるため死罪を行い、父の将監のもとへ使いを遣わして、甚次郎の罪を申し聞かせ、父母には憐みを加えました。将監はいったん君命を畏まって奥に入りましたが、やがて長刀を持ち出して使者に立ち向かい、「謙信公にも、あなた方にも恨みはない。ただ子を思う道に迷って気が違ったのだ」と言い終わらぬうちに、二人の使者を突き伏せました。近辺の者が駆け集まり、将監とそのほか働いた家来をことごとく誅殺しました。このとき手負い・死人は三十人に及びましたが、輝虎はまったく怒らず、「子を失って気が違ったのも不憫だ」と言って、その妻と娘を手厚く扶持されました。 輝虎は、晴信と和平を結んだとき、使僧の長遠寺に問うて言いました。「甲斐の侍に、向井与左衛門という者はいるか」。「おります」と答えます。「また傷の痕はあるか」と問うと、「顔に刀の痕があります」と言います。輝虎は言いました。「川中島の戦で名乗りかけて、私を後ろから突いたところを、振り返って一刀に斬ったのだ。よもや助かるまいと思ったが、生き延びたのだな」と。そう言って、萌黄の胴肩衣で槍の痕のあるのを取り出し、書簡を添えて向井に賜りました。これを世に「返り感状」といいます。その書中に川中島のことを載せていたと伝わります。 忍で輝虎が北条氏政と対陣したとき、太田資正に別心(裏切りの心)があるとの噂があったので、輝虎はただ一騎で急に資正の備えに乗り込み、資正の三男の安房守資氏、そのとき十二歳になる子の手をしっかりと取り、「いやはや、よい生まれつきだ」と、我が子にもらい受けようと言って連れ帰りました。資正は氏政を引きつけて手替わりしようと思っていましたが、氏政の人数がまだ来ないうちに、輝虎が人質を取って帰ったので、どうしようもなく別心を止めたと伝わります。人々は皆、輝虎が急に来たことに感心しました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 退き口を見抜く眼○此役、輝虎、武田、北條の陣前を打通り、私市を屠り歸る時、武田の陣に押太鼓を打て進み來る體なり。我兵之を見て、物具堅め馳向はんとす。輝虎令して曰く、此敵進み來るにあらず、退去るなり、聊か驚くべからず、甲冑を脱ぎ馬の鞍を卸し、人馬共に心靜に休息すべしと。其如く五六町進み來て、果して退き去りぬ。人皆之を怪む。輝虎聞て是れ怪むに足らず、眼前に私市の城を攻め落さるゝを見て後卷すること能はず、能るに今何ぞ進み來らんや、是は則ち退口の懸色と言ふものなり、汝等之を辨察せざらんやと言はれけり。 ○輝虎、既に私市を屠り厩橋に至り、長尾彈正謙忠、四ケ條の罪あるを以て、之を手刄す。謙忠家中の妻子共は、兼ねて城外に出し置きし故、悉く尋問し、分々に隨て金銀米錢を賜はる。其中に謙忠が幼子十二三歳なりしが、母と共に近鄕に在り、是は謙忠が子なれば誅せらるべきやと申す。輝虎聞て、何條去ることあるべきや、其子成人して、予を狙ひ、父が怨を報ゆるも、報ゆる能ばざるも、夫は其者と予が天運に在らん、十二三歳の者なれば、父に黨して逆心あるべからずと言て、是も同く金子を賜はりて、飢寒の憂を免かれさせけり。此恩にや感じけん、景勝の時、彼兄弟右馬助、右京亮と呼ばれ、加賀國市橋の城にて忠死せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 去った近臣と若き刺客○輝虎の出頭人、小森澤某出奔す。人皆輝虎が目利違ひたると言ふ。輝虎聞て、小森澤が出奔誠に不思議なりと言はれけり。夫より三年の後上野新田邊へ、輝虎働き出づ。何つも二三騎にて總人數より五里も七里も先きに斥候に出ける。敵聞て鳥銃にて打べしとて、切所を見立鳥銃三挺置て待ちたり。其時小森澤、六七町走來りて之を告て曰く、日頃輕き働を成し給ふに付、箇樣の大事あるべきかと思ひ、新田へ參り奉公しければ、輝虎を汝見知りたるかと申て指越候と。輝虎淚を流し、其忠志を感じ小森澤に加恩を賜へり。爰に至りて人皆輝虎の明鑑に服せり。 ○輝虎、越中の神保と戰ひ、屢々之を破る。神保勝つべからざるを知り高木左傳と云ふ十六歳になりし者を、陽はり怒て罪ありし如くにして追出し、輝虎に仕へしめ、間を窺て之を刺殺さしめんとす。輝虎去る大將なれば、其才を愛せしかども、敢て近付けず。左傳如何共することなく、居ること歳餘、輝虎、左傳を召し、汝は是神保が刺客なり、我之を知れり我にして汝を殺すは最易けれども、臣各其主の爲めにする段殊勝の至りなれば、其罪を赦すなり、疾く歸り、汝が主に告けよ、輝虎術中に陥らずと。左傳事の成らざるを知り自殺す。輝虎聞て、彼が忠死を惜み、感涙を流されけり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 信玄の死を悼む○北條氏康、以爲く、武田晴信、織田信長は表裏反覆にして賴むに足らず、獨輝虎のみ受合たる上は骨になるまでも、義理を違へざるものなれば、輝虎の肌着を分けて、若き武將の守袋にさせ度思ふなり。我等明日にも相果てなば、後賴むべきは輝虎なりと言て、太田資正に倚り、終に和睦し、季子三郎を春日山に送り、以來氏政をも御引廻し偏に賴み奉るとのことなりけり。 ○元龜三年四月、輝虎、晴信の三河に出るを聞き、信濃に入り、火を長沼に縱ち、遙に德川氏の聲援を爲せり。時に晴信の庶子勝頼、見兵八百を以て出て拒む。輝虎歎じて、勝頼寡兵を以て我に當らんと欲す、實に信玄の兒に愧ぢず、吾其勇を成すなりと言て、兵を引て還れり。世人之を多とす。 ○天正元年四月、晴信卒。此事殊の外隱密故、輝虎知らずして居たりし所に、北條氏政より山中兵部を使として申越せり。其時輝虎、春日山水門に居て、機嫌能く湯漬を食して居たりし所に、信玄死去の由、本庄淸七披露す。輝虎其儘箸を捨て、口なる湯漬を吐き出し、偖も偖も殘念のことなり、名大將を殺したり、英雄人傑とは、此信玄をこそ言はめ、關東の弓箭柱なくなり惜きことなりと言て、涙をばら/\と流し、偖三日の間音樂を禁ぜしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』武田晴信 見えぬものを疑う○晴信、兵を信濃に出せし時、兩道あり、一方の道能き方へ押すべきと思ひけるに、一村茂みあり。此所は鄕人支切るべき地なり、あの村の茂みの中に人やある、見て來れと使番を遣りけるに、使番見切り歸りて、人は居り申さずと言ふ。晴信、聞て其見る所は如何にと尋ねければ大木の松あり、下枝に白鷺數多宿すと申す。晴信其動きを見たるかと尋ぬ。動きは見ずと申す。晴信動きなくば作り物たるべしとて、鷹匠を遣りて鷹を放たせけれども、動かず。鷹は拳に歸る。偖こそ鄕人共集り居ると見えたれとて、此方へ押通れとありて、一方の道へ押させければ、果して右の茂林の中より鄕人出でしとぞ。 ○河中島の役、輝虎名馬の放生月毛を乘捨けるを、長坂頼弘取て乘り、流石の輝虎も馬を捨られ候と言ければ、晴信大に怒り、馬草臥は乘替てこそあるらめ、乘替たる時、合戰負けに成りたらば、中間共捨てゝ逃んに、夫が輝虎弱きとは、一段無穿鑿なる申樣哉と言はれけり。 ○晴信、輝虎と對陣の時、晴信一の手若者、二の手に老功を用ひ、前に川を當て待つ。輝虎之を見て戰はず。是は一の手の若者、二の手の老功に恥て、一入強く戰を勵むべし、二の手の老功、又若手に劣らじと相勵み強みを出すが故なりとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 鳥銃を捨てた岑沢○輝虎、武藏、上野、下野邊へ毎年五七十日の間往返せしに、敵の城城皆門を閉ぢて出合はず、況や戰ふ者をや、敵は論なし、味方の大小名も、此序に取られんかと、上下安き心なし。關東の敵味方、輝虎越後へ歸陣するに、上野猿ケ京を通り過ぎたりと聞て、初て安堵の思ひを成せり。只大夕立大雷鳴過ぎて後、雨霽たる心地して、喜びけるとぞ。 ○輝虎の臣岑澤某と云ふ者、罪ありて放斥せられ、越中の椎名に奉公せり。輝虎越中へ兵を出しゝ時、岑澤叢に隱れ、鳥銃を以て伺ひ居たりしが、俄に鳥銃を傍らに扱け捨て、泣き居たり。輝虎見出して、如何に岑澤珍しと言はれしかば、岑澤さばかりの仁君智將を討ち奉らんと存せしこと、悔く成て候、今遙に見奉りて、先きに屋形の心に背き、又斯る巧を仕ること、此上もなき大罪にて候、疾々首を刎らるべしと言て、伏しければ、輝虎打笑ひ、吾に智仁とは相應せざる虛名なり、疾く馳歸りて、椎名に能く仕へよと言はれしかども、岑澤越後に歸りて農夫となりて、一生を終りたりとかや。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 主の座を辞して令を通す○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸將相議し、輝虎を立て主と爲さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髮を剃り、謙信と號し、世を遁れ高野山に赴んと言て、關の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸將の愛戴を忝くし水火に赴くとも辭すべからざる所なり、唯不才にて上將の任に當り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸將皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に歸り、明日命を專にする大臣十六人を收め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て國中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戰て敗績し、越後に來て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる樣如何と問ふ。義清、十年以來信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする樣にて少しもせず、勝ての後は戰前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、國を多く取るべきとの、臆見なり。我は國を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戰を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。