名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 小荷駄なき敵の退却
○十六年四月、長尾越前守政景七千餘人に將として來り、橡尾城を攻む。輝虎櫓に上り、敵を見て、今宵敵は引取るべきなり。其退口に突て出んと言ふ。宇佐美定行、長途を來りし敵如何で空く引取るべきや、突て出で打拂はんと言ふ。輝虎、我曹より敵を見るに、軍兵計りにて小荷馱なし、長陣の敵にあらずと思ふなりと言ければ、定行聞て御尤至極なりと言ふ。去らば突て出でよとて、夜半に切て出る。案の如く敵の退口へ切て掛りし間、敵惣敗軍に及びたり。輝虎勝に乘じ、追撃す。定行及び本莊慶秀等續て、打て出で、柿崎の下濱に戰ふ。敵遂に戰負て米山に逃け登る。輝虎追撃せしが米山東坂本にて、殊の外眠くなるまゝに、暫らく休みて打立つべしとて、小家に入て眠る。定行之を見て、是は如何なることにて候哉、今敵を追立候ことは破竹の勢に候へば、此勢に乘じ追撃れよと促しけれども、輝虎は眠しとて高鼾にて伏す。
新字:○十六年四月、長尾越前守政景七千余人に将として来り、橡尾城を攻む。輝虎櫓に上り、敵を見て、今宵敵は引取るべきなり。其退口に突て出んと言ふ。宇佐美定行、長途を来りし敵如何で空く引取るべきや、突て出で打払はんと言ふ。輝虎、我曹より敵を見るに、軍兵計りにて小荷馱なし、長陣の敵にあらずと思ふなりと言ければ、定行聞て御尤至極なりと言ふ。去らば突て出でよとて、夜半に切て出る。案の如く敵の退口へ切て掛りし間、敵惣敗軍に及びたり。輝虎勝に乗じ、追撃す。定行及び本荘慶秀等続て、打て出で、柿崎の下浜に戦ふ。敵遂に戦負て米山に逃け登る。輝虎追撃せしが米山東坂本にて、殊の外眠くなるまゝに、暫らく休みて打立つべしとて、小家に入て眠る。定行之を見て、是は如何なることにて候哉、今敵を追立候ことは破竹の勢に候へば、此勢に乗じ追撃れよと促しけれども、輝虎は眠しとて高鼾にて伏す。
書き下し
○十六年四月、長尾越前守政景七千餘人に將として來り、橡尾城を攻む。輝虎櫓に上り、敵を見て、今宵敵は引取るべきなり。其退口に突て出んと言ふ。宇佐美定行、長途を來りし敵如何で空く引取るべきや、突て出で打拂はんと言ふ。輝虎、我曹より敵を見るに、軍兵計りにて小荷馱なし、長陣の敵にあらずと思ふなりと言ければ、定行聞て御尤至極なりと言ふ。去らば突て出でよとて、夜半に切て出る。案の如く敵の退口へ切て掛りし間、敵惣敗軍に及びたり。輝虎勝に乘じ、追撃す。定行及び本莊慶秀等續て、打て出で、柿崎の下濱に戰ふ。敵遂に戰負て米山に逃け登る。輝虎追撃せしが米山東坂本にて、殊の外眠くなるまゝに、暫らく休みて打立つべしとて、小家に入て眠る。定行之を見て、是は如何なることにて候哉、今敵を追立候ことは破竹の勢に候へば、此勢に乘じ追撃れよと促しけれども、輝虎は眠しとて高鼾にて伏す。
現代語訳
十六年四月、長尾越前守政景が七千余人を率いて来て、橡尾城を攻めました。輝虎は櫓に上って敵を見、「今夜、敵は引き取るだろう。その退き口に突いて出よう」と言います。宇佐美定行は「長途を来た敵が、どうして空しく引き取りましょうか。突いて出て打ち払いましょう」と言いました。輝虎は「我々から敵を見ると、軍兵ばかりで小荷駄がない。長陣の敵ではないと思う」と言い、定行は聞いて「ご尤もの至りです」と言いました。「それなら突いて出よ」と、夜半に斬って出ます。案のとおり敵の退き口へ斬りかかったので、敵は総敗軍に及びました。輝虎は勝ちに乗じて追撃します。定行および本荘慶秀らも続いて打って出て、柿崎の下浜で戦いました。敵はついに戦に負け、米山に逃げ登ります。輝虎は追撃して米山の東の坂本まで来ましたが、ことのほか眠くなったので、「しばらく休んでから出立しよう」と言って、小屋に入って眠りました。定行はこれを見て、「これはどうしたことですか。いま敵を追い立てているのは破竹の勢いです。この勢いに乗じて追撃なさいませ」と促しましたが、輝虎は「眠い」と言って高いびきで伏せていました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 父の死と逃亡の日々○天文十四年四月、爲景栴檀野にて戰死せし由、府內へ聞えければ、爲景の族長尾平六俊景俄に兵を起し、府內の城を襲ふ。輝虎味方の敗軍を見て、取て返して戰はんとする所を、小島勘左衞門走寄り、袖を控へ大將の公達たらん人は、御身を完うして時を待ち、逆徒を打平げ給ふこそ、御本意なるべけれ、今爰に死し給ふは却て未練の御働なりとて、人紛れに誘ひ去らんとしけれども、敵大勢群り來る故、如何ともすべからず。如何せんと前後の透間を窺ふ所に、門番に居合はせたる山岸莊助と申足輕、小さかしき者にて、番所の板敷引發し、匿くし置く。程なく夜に入りければ、開て之を出だすに、熟眠して居たり。夫を喚起して林泉寺へ落しけり。寺僧亦之を危ぶみ、其夜の中に乳母の夫橡尾の本莊美作守慶秀に托す。慶秀則ち我が家に匿くし、宇佐美駿河守定行と共に、心を盡して保護せり。 ○明年正月、輝虎、賊の己を捜索して已まざるを聞き、出て之を避けんと欲し、從士十四人と行脚の僧狀を爲し行縢を着し、草鞋を穿ち出て米山に上り、府內を臨み覗て曰く、吾他日兵を起し、國を復する時は、必ず此に陣せんと。遂に栴檀野に至り、泣き且つ拜して曰く、兒必ず仇敵を夷滅して、以て冤魂を慰せんと。是に於て北陸東山の諸國を經歷し、山川城地の形勢を周視し、悉く圖寫して齎らし歸る。既にして賊に告ぐるに輝虎の在る所を以てする者あり。賊人を遣はし來り捕へんとす。輝虎慶秀、定行と謀り、兵を起し橡尾の城を修め、之に楯籠れり。
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名将言行録・『名将言行録』北條氏康 上杉輝虎の来襲と籠城の策○永祿四年、上杉輝虎大兵を率る、小田原に攻入らんとす。氏康之を聞き諸將士を會して曰く、輝虎、憲政の爲めに當春大軍を率し、當家を斃し關東を治めんとする由聞き及べり、抑と輝虎は天性健なる若者にて、血氣盛にして怒り易く、火の中へも飛入り、鬼なりとも拉がんとする程の短氣なる勇將なれども、少し時過ぐれば、其勇氣醒めて萬事思慮する樣なりと聞く、殊に今度憲政より管領を譲られて、諸將を下に付けぬれば、一入强みを出すべし、去れば原野に出合ての戰は然るべからず、其上太田資正、謀を廻らし、大石、小幡、白倉等先陣をする風聞なれば、定めて大兵たるべし、要害の用意を增し、籠城の覺悟尤もなり、持分の城、餘多の内構淺間なるは破却し、鷹巣、入江、松山、布引、白根、山根抔には各一將を加ふべし、輝虎前後に大敵あり、兩月と當表にて手間を費すことあるべからず、且つ上野の義は小田原より郡代を置きたるにもあらず、輝虎支配するとても世の聞え何ぞ苦しからん、輝虎は一旦の情を張る男にて、憲政に頼まれたる首尾までにすることなれば、平井をさへ彼にて支配をするに於ては一益ありと思ふべし、去らば場に由り敵に緣り、或は怒らせて善きことあり、又態とも敵に一面目付けて無事をして善きことあり、と委細に評論しければ、諸將士何れも其見に服せり。三月果して輝虎、蓮沼まで攻入りしかども、我兵出合せねば、力なく軍兵共は長途の滯陣に勇氣疲れ、荒大將に揉まれて退屈の體に見えける所へ、小田原より忍々に人數を出し、田島、曾我山より夜々忍を入れて敵の小屋を燒拂ひ、其上小荷駄を奪ひ取りしかば、案の如く、五十日にも及ばざるに、糧食に差支、之に依て叶はずとや思ひけん、小田原を引退き、鶴岡八幡へ參詣の時、成田下總守長泰を恥しめし事により、總軍瓦解に及びし所に、我兵後を慕ひ、數百騎打取り、輜重を奪ひしかば、輝虎漸々の事にて歸國せり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉輝虎 返書一枚で即出馬○小田讃岐守氏治、年來弓箭強ければ結城政勝、佐竹義昭、宇都宮廣綱を始め、近邊の諸將申合はせ、諸方より攻めけれども、遂に勝つことなし。永祿元年四月、輝虎上野に至りしを幸として、諸將各々使者を馳せて小田氏を退治せられんに於ては、幕下に屬すべしと言ふ。輝虎速に同心ありて、八幡可レ令二出馬一と計り返事自筆にて短册の如く書て、諸家の使者に投く。眞壁抔の使者歸りて、主人右衞門尉氏幹へ右の返事披見に入る時、早や輝虎先手の人數宇都宮氏家ケ原に相見ゆるとの注進なり。諸將其迅速に驚く。輝虎八千人を引具し、二十七日夜山王堂に着陣し、翌二十八日、氏治と戰て大に之を破る。最初に輝虎の出馬を賴みたる諸將、迅速の出陣と其威の猛なるに驚き、面々の城へ引籠て門戶を鎖し、此戰に出合はず、輝虎勝利の後、追々群集して謝辭を述べたり。依て右の諸將を先鋒として、終に小田城を拔けり。
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名将言行録・『名将言行録』上杉景勝 弱みを見せて誘い出す此度五百騎の將に成り、殊に景勝小軍なり、長國方へ取掛らば、館より後詰を乞ひ、館へ取掛らば長國後詰して景勝を打取べしと分別して、館を離るべき長國ならんと言て、其後館へ働きても敵に少しも權あらば、早々春日山へ引入り、又敵春日山へ働く時は、矢一つも射出すことならざる樣に、弱みを見せし故に、案の如く長國五百騎の人數を率ゐて、館より十七八町西の傍ら、高見と云ふ所へ打て出で、堅固に陣を構へり。此方は彌々其威を恐れ、顔出しもならざる樣に爲しゝ故、長國一入此方を侮り、作毛を刈り、或は放火抔致しけれども、一圓に取合はず。明れば七年正月晦日、長國日待をし、二月朔日の旭を拜すべしとて、長陣に諸人草臥申べき間、今夜は心の儘に遊び候へと申付しは、彌々此方を侮りたる樣子なり。此儀隱なく透波ども歸り來て告ぐ。景勝聞て、天の與ふる所なりと喜びて、其夜大場海道を除き、左手に付鍬取山の谷合を押し、小田の明神へ取付き、高見より七八町此方なる五智の如來堂まで押寄せ、是に隱れ居て手合をし、敵の虚實を計り、旗本は兵を勝て七百人を二手に分け、足輕を左右に立、鳥銃を放ち掛くると同時に、鬨を作り、攻寄せては、火を付け、引揚ては又鬨を作り、火矢を射て陣屋を焼き、偖又地下人に申付て、如來堂より味方續きの所、方々に篝を焼き並べ、數千の備の如く相見する。長國の者舞謠遊宴し、油斷の折節なれば、周章騷て防ぎ戰ふこと思ひも寄らず。長國は休みて居たりしが、浴衣掛にて出合ひ、下知をすれども、中々備を立ることならず。去れども流石の長國なれば、馬に打乘り、只一騎敵味方の間を乘割り、館の方へ引退く。家來共馳付五六十人にて取包み、八幡の馬場へ掛りて行く所を、荻田主馬投突きに突く。長國脇腹へ突立しが一向に取合はずして引退く。景勝高見の敵を追散らし、八幡の馬場を指して、館まで追討、首五百八十餘打取り、凱歌を取り行ひ、同日辰の刻凱旋す。