名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 眠るふりで敵を誘う
定行種々異見すれども、更に聞き入れず、故に人々運の極めなりと言あへり、偖輝虎は、敵米山越を三分二程越えたりと思ふ時分に、早貝を吹かせ打立米山へ追上りければ、案の如く敵は下り坂へ赴く所へ追付、敵龜破坂より追落され、死する者數を知らず。定行人に向ひ、今日主公米山坂にて眠られ候を、各合點せられしやと尋ぬるに、皆知らずと言ふ。定行、敵米山へ逃け上る時、之を追て若し敵に返されなば、山高に敵を受け、追返さるゝこと必定なり。主公其時を積もり、眠ろ眞似して上り坂を敵に上せ、下りになりし所を追撃勝利を得られたり、我若年より數十度の事に逢ひしかども、其積もりなきに、主公御年少にて機に臨み變を制せらるゝこと斯の如し、此智惠は軍神の化身かと存ずるなりと言へり。後幾程もなく政景降人となりて出でにけり。輝虎乃ち上杉定實に謁し、事の始末を申述べたり。定實左右に語て曰く、是蛟龍なり、一旦風雲を得ば、終に池中の者にあらずと。
新字:定行種々異見すれども、更に聞き入れず、故に人々運の極めなりと言あへり、偖輝虎は、敵米山越を三分二程越えたりと思ふ時分に、早貝を吹かせ打立米山へ追上りければ、案の如く敵は下り坂へ赴く所へ追付、敵亀破坂より追落され、死する者数を知らず。定行人に向ひ、今日主公米山坂にて眠られ候を、各合点せられしやと尋ぬるに、皆知らずと言ふ。定行、敵米山へ逃け上る時、之を追て若し敵に返されなば、山高に敵を受け、追返さるゝこと必定なり。主公其時を積もり、眠ろ真似して上り坂を敵に上せ、下りになりし所を追撃勝利を得られたり、我若年より数十度の事に逢ひしかども、其積もりなきに、主公御年少にて機に臨み変を制せらるゝこと斯の如し、此智恵は軍神の化身かと存ずるなりと言へり。後幾程もなく政景降人となりて出でにけり。輝虎乃ち上杉定実に謁し、事の始末を申述べたり。定実左右に語て曰く、是蛟竜なり、一旦風雲を得ば、終に池中の者にあらずと。
書き下し
定行種々異見すれども、更に聞き入れず、故に人々運の極めなりと言あへり、偖輝虎は、敵米山越を三分二程越えたりと思ふ時分に、早貝を吹かせ打立米山へ追上りければ、案の如く敵は下り坂へ赴く所へ追付、敵龜破坂より追落され、死する者數を知らず。定行人に向ひ、今日主公米山坂にて眠られ候を、各合點せられしやと尋ぬるに、皆知らずと言ふ。定行、敵米山へ逃け上る時、之を追て若し敵に返されなば、山高に敵を受け、追返さるゝこと必定なり。主公其時を積もり、眠ろ眞似して上り坂を敵に上せ、下りになりし所を追撃勝利を得られたり、我若年より數十度の事に逢ひしかども、其積もりなきに、主公御年少にて機に臨み變を制せらるゝこと斯の如し、此智惠は軍神の化身かと存ずるなりと言へり。後幾程もなく政景降人となりて出でにけり。輝虎乃ち上杉定實に謁し、事の始末を申述べたり。定實左右に語て曰く、是蛟龍なり、一旦風雲を得ば、終に池中の者にあらずと。
現代語訳
定行がさまざまに意見しても、輝虎はまったく聞き入れませんでした。そのため人々は「運の極みだ」と言い合いました。さて輝虎は、敵が米山越えの三分の二ほどを越えたと思う頃合いに、早貝を吹かせて出立し、米山へ追い上りました。案のとおり敵は下り坂に向かうところへ追いつき、敵は亀破坂から追い落とされ、死ぬ者は数を知れませんでした。定行は人に向かい、「今日、主公が米山の坂で眠られたことを、皆は合点されたか」と尋ねましたが、皆知りませんでした。定行は言いました。「敵が米山へ逃げ登るとき、これを追って、もし敵に返されれば、山の高みから敵を受けることになり、追い返されるのは必定だ。主公はその時を見積もり、眠るまねをして敵に上り坂を上らせ、下りになったところを追撃して勝利を得られた。私は若いころから数十度の戦に遭ったが、このような見積もりはなかった。主公は御年少で、機に臨み変を制せられることこのとおりだ。この智恵は軍神の化身かと思う」。のち、間もなく政景は降人となって出てきました。輝虎はそこで上杉定実に謁し、事の始末を申し述べました。定実は左右に語って言いました。「これは蛟龍である。ひとたび風雲を得れば、ついに池中の者ではない」。
解説

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