名将言行録 / 『名将言行録』上杉輝虎 主の座を辞して令を通す
○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸將相議し、輝虎を立て主と爲さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髮を剃り、謙信と號し、世を遁れ高野山に赴んと言て、關の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸將の愛戴を忝くし水火に赴くとも辭すべからざる所なり、唯不才にて上將の任に當り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸將皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に歸り、明日命を專にする大臣十六人を收め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て國中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戰て敗績し、越後に來て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる樣如何と問ふ。義清、十年以來信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする樣にて少しもせず、勝ての後は戰前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、國を多く取るべきとの、臆見なり。我は國を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戰を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。
新字:○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸将相議し、輝虎を立て主と為さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髪を剃り、謙信と号し、世を遁れ高野山に赴んと言て、関の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸将の愛戴を忝くし水火に赴くとも辞すべからざる所なり、唯不才にて上将の任に当り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸将皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に帰り、明日命を専にする大臣十六人を収め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て国中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戦て敗績し、越後に来て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる様如何と問ふ。義清、十年以来信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする様にて少しもせず、勝ての後は戦前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、国を多く取るべきとの、臆見なり。我は国を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戦を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。
書き下し
○二十一年八月、越後既に平ぐ。諸將相議し、輝虎を立て主と爲さんと欲す。輝虎大臣の跋扈して主令の行はるべからざるを慮り、髮を剃り、謙信と號し、世を遁れ高野山に赴んと言て、關の山まで出づ。宇佐美定行、長尾政景等大に驚き、輝虎ならでは越後を蹈み治むること成るまじとて、如香山に追及し、強て之を止む。輝虎曰く、吾諸將の愛戴を忝くし水火に赴くとも辭すべからざる所なり、唯不才にて上將の任に當り令すと雖も、行はれずんはいづくんぞ能く其下を治めんやと。諸將皆吾の令を奉承せざらんものは、誓書の如くあらんと言て、各誓書を奉る。輝虎卒に歸り、明日命を專にする大臣十六人を收め、死を林泉寺に賜ふ。是に於て國中震慴せり。 ○二十二年八月、村上義清、武田晴信と上田原に戰て敗績し、越後に來て恢復を輝虎に託す。輝虎承諾し、偖信玄の兵を用ふる樣如何と問ふ。義清、十年以來信玄勝利を取りたる間、今は早や末を頼み、大事に致し弓箭を締めて取り、卒爾の働きする樣にて少しもせず、勝ての後は戰前より用心を深くし、十里働く所を三里、或は五里働き候と言ふ。輝虎聞て、信玄の兵を用ふるに、後途の勝を肝要にするは、國を多く取るべきとの、臆見なり。我は國を取るには構はず、後途の勝をも構はず、指掛りたる一戰を返さぬを、肝要とすと言て、兵を出せり。
現代語訳
二十一年八月、越後はすでに平らぎました。諸将は相談して、輝虎を立てて主にしようとしました。輝虎は、大臣が横暴で主君の命令が行われないことを案じ、髪を剃り、謙信と号し、世を遁れて高野山に赴くと言って、関の山まで出ました。宇佐美定行、長尾政景らは大いに驚き、輝虎でなければ越後を治めることはできないと、如香山に追いつき、強いてこれを止めました。輝虎は言いました。「私は諸将に愛され戴かれることをかたじけなく思い、水火の中でも辞してはならないところだ。ただ不才で上将の任に当たり、令を出しても行われないなら、どうして下を治められようか」と。諸将は皆「わが令を奉承しない者は、誓書のとおりになるものとする」と言って、おのおの誓書を差し出しました。輝虎はついに帰り、翌日、命令を専らにしていた大臣十六人を捕らえ、林泉寺で死を賜りました。これによって国中は震え上がりました。 二十二年八月、村上義清が武田晴信と上田原で戦って敗れ、越後に来て回復を輝虎に託しました。輝虎は承諾し、「ところで、信玄の兵の用い方はどうか」と尋ねました。義清は言いました。「十年この方、信玄が勝利を取ってきたので、今はもう先を頼み、大事に用心して弓矢を締めて取り、軽率な働きは少しもしません。勝ったあとは戦の前より用心を深くし、十里働くところを三里、あるいは五里にとどめて動きます」。輝虎は聞いて言いました。「信玄が兵を用いるのに、後々の勝ちを肝要とするのは、国を多く取ろうという臆見である。私は国を取ることにはこだわらず、後の勝ちにもこだわらず、目の前に差しかかった一戦を返さないことを肝要とする」と。そう言って兵を出しました。
解説

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